第56話 奪われる者
「なら、約束。見つけたら連れて戻ってくるよ。俺が殺されなかったらね」
すっかり垢抜けた横顔を見て、彼女は困ったように眉尻を下げた。
「……やっぱり、第二王子の『鷹』って、アレクなんだね。すごいなぁ」
「うん、だから、俺は風が使える『
チチェクははたと黙り込んだ。
この村で一番力が強くなると言われていたのが彼女だった。翼をほとんど動かさなくても空を舞い、笑えば小さな雨粒が落ちてくることもあった。順当に成長すれば必ず『雨乞乙女』を勤めているはずだ。そして彼女なら雨を降らせるだけでなく、風自体を使役し、周囲に干ばつさえもたらした可能性がある。
サグエル領の大干ばつの原因は、彼女の力に起因する恐れさえあった。
この沈黙で全てが分かった。風を直接使役できる乙女はチチェクだ。黙り込むところを見るに、結婚してもなお力が使えるようだ。
「来てくれる?」
夫と敵同士になる提案をするのは心苦しかったが、ナーシルは聞いた。チチェクが風を操ることができるのなら、無理に連れて行くか、どこかへ閉じ込めて無力化するしかない。彼女の力の程度が分かれば、そこから先は力づくで連れて行く必要があった。
ーーあの人も酷い命令をするなぁ。
ナーシルは胸の中で文句を言いながらチチェクに笑顔を向けた。
「来てくれるなら、手厚く歓迎するよ」
つまり、ナーシルの帰郷は村人に油断して真実を話させるためのものであり、また、村で囲われる幼馴染を岩で囲われた籠の中から奪い去るためのものだった。
「……お腹に、赤ちゃんがいるの」
自分の腹を庇うように手で支え、彼女は言った。
ナーシルが息を呑んだ音が聞こえたのだろう。彼の記憶にあるよりずっと大人っぽくチチェクは笑った。
「だから、行けない。ごめんなさい」
しばらくナーシルは声が出せなかった。恋焦がれた相手がすでに他の男と結ばれたことが悲しかったのか、それとも戦力の拡大が見込めなかったことか。どちらが自分の意思であるのかしばらく理解できなかった。返事を必死に捻り出すことだけに集中しても、喉が張り付いて声が出なかった。
結婚をしたのだから、当たり前のことだ。ナーシルは自分にそう言い聞かせた。
「……そう」
それだけ返事をして、ナーシルは荷鳥に乗り込んだ。彼を止めようとチチェクが手綱を握る。
「待って、どこへ行くの?」
「戦場」
「行かないで」
「なんで?」
思った以上に冷たい声が出た。こんな声色で彼女に返事をするのは、初めてのことだ。
「だって、カルハマンさんが王様の軍にいるんだよ。アレクは敵の……第二王子の鷹なんでしょ? それに、アレクのお父さんとお母さんだってもうサヒルに引っ越したし……サヒルへ行くっていうなら、私、行ってらっしゃいって言えるよ。ねぇ、アレク、お願い……」
甘くて優しい声だった。記憶にあるよりずっと。彼女の声を聞くたびに、ナーシルは頭の中に微かな痺れを覚えた。とっくに諦めたはずの初恋はいまだにナーシルの中で燻っているようだ。
「それは、ずるいよ」
チチェクの指をそっと手綱から離させる。
国王軍は一体何と言って彼女に美人局のようなことをさせるよう唆したのだろう。
「俺が君に惚れてるの、君が一番分かってるだろ?」
もう夢見ることさえ叶わないのなら、せめて少しでも記憶に残りたい。
そんな我儘を本当に口に出したら、きっと彼女は「忘れるわけない」と残酷なことを言うだろう。真心と純粋さが人の心を抉ることを、彼女が知る由もなかった。そして、そんなところが好きだった。
荷鳥を空に飛ばすと、チチェクも当然のように浮き上がってついてくる。どこからか小さな雨粒が降ってきて、彼女の頬に涙みたいな跡を作った。
無視をしたって、きっと彼女はついてくるだろう。そして、ナーシルが諦めるまでついてくるつもりだ。
だからナーシルは、肩をすくめてわざとらしく笑った。
「……ついてきたら、俺のお嫁さんにするから」
「……」
ちゃんと冗談に聞こえただろうか。
冗談でも本気でも、彼女は結婚するまで毎日同じことをいろんな男から言われていたはずだ。だから、これはチチェクにとって、「さよなら」以上の言葉を持つはずがない。
涙が柔らかな頬を滑っていく。
彼女は顔を真っ赤にして泣いていた。
それでナーシルは、彼女の心の行く末を知ってしまった。
「あーあ」
空を見上げると、ナーシルの頬にも雨粒が落ちてきた。
「そんなに泣かないでよ。俺まで泣きたくなっちゃう」
雨粒が空から落ちてきて、チチェクとナーシルの間をすり抜けて地面に落ちた。
ナーシルは黙って荷鳥の手綱を引いた。風を使役する女とそんなに離れたくないのか、荷鳥は恨めしそうにナーシルをチラリと見た。しかし、朝も晩も嵐の夜も一緒に乗り越えた相棒だ。荷鳥は指示に従って山裾の方へ頭を向けた。
雨がどんどん強くなるのは、チチェクが風も雨も操らずに空を飛んでいるからだ。冷たい雨粒が視界を遮る。ナーシルは袖で乱暴に目元を拭うと、イルハンが駐屯している場所へ向かって鳥を進めた。
赤い山と鈍色の空に、チチェクはただ浮いていた。涙は雨が拭ってくれ、空の精霊は彼女が思うままに好きなだけそこに留まらせてくれるだろう。それが空の精霊に愛された乙女の力だった。そして、人間にたちに何もかも奪われるのも、その力があるせいだった。彼女は夫だけでなく、大切な幼馴染さえも、人間に奪われたのだ。
ナーシルが豆粒ほどになっても、もう見えなくなっても、彼女は一人きりで空に佇んでいた。そして、力の及ばない赤い大地が濡れていく様をじっと睨みつけていた。
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