第51話 風を孕む翼

 脂汗でさえも凍り付く極寒の中、セルカンが率いる遊撃隊は山頂の広場を目指して馬を進めていた。騎手が姿勢を保てない中、難所を通るのはあまりに心もとない。タネルは荒い息を吐きながら、歯を食いしばって手綱を握りしめた。


「タネル、僕の手袋を使え。指の色がおかしい」


 彼の手袋は、誰かの吐しゃ物で汚れて使えなくなってしまった。幾分風がマシになったとはいえ、雪のちらつく中での行軍で爪先が青紫色に染まりかけている。


「しかし、殿下のものをいただくわけには参りません」

 セルカンは久しぶりに笑顔を浮かべていた。どこか儚げな表情にタネルの胸が痛む。


「……俺が、功を焦ったせいです。やはりサグエル領で待ち伏せしていればこのようなことには」

「でも一度は成功しただろ。今回だって、兵糧ひょうろうが傷んでいなければ……」

 そう言いながら、セルカンはふと下の山道を覗き込んだ。


「体調が戻るまでに敵兵が出てきたら、こっちが全滅させられるな。ほら、手袋」

「し、しかし……」

「薄手のものを荷物に入れてくれただろ。いいから気にせず使って」


 タネルは目元にうっすらと涙を浮かべて、セルカンが脱いだ手袋を受け取った。


「……ありがとうございます」

 それを聞いて、セルカンは嬉しそうな吐息を漏らした。


 息が凍り、キラキラと音を立てたように聞こえた。タネルが震える手で手袋をつけたとき。


――けたたましい音を立てて後方の尾根が崩れた。


 息を呑む間もなく、殿を務めていた兵士たちが馬や山羊ごと谷底に落ちていく。咄嗟に岩肌や下の山道に掴まれるものはいなかった。

 コト、と音を立てて木製の杭がセルカンの足元に落ちる。

 物音に反応したタネルの目が見開かれた。


「……っ! 殿下、セルカン殿下! 罠です!」


「この風の中、尾根から!? タネル、それは無茶だ」

「たまたま動いても、罠は罠です。広場まで行けば……!」


 ぱらぱら、と小石が落ちてくる。

 誰かが彼らを狙っている。


「……とにかく、先へ進みましょう」


 この風の吹く中、血液さえも凍り付きそうに冷える尾根からじっと見られている。


 思えば、この行軍中、時折砂粒が尾根から転がり落ちてくることがあった。この難所に、この季節に人がいるとは考えなかった。そもそも、自分たちが通るこの山道でさえ、雨季に入ると人が通らないような悪路だ。


 そのさらに上。歪んだ形の尾根に野鳥ではなく人がいるはずがない。


 誰もが自然に手綱を握りなおし、広場を目指す。退路が断たれたのだ。先にどんな罠が待ち構えていようと、進むしかない。


「しかし、尾根には馬は登れない……山羊か?」

 狼峠は風が強く、荷鳥を使うものはいない。また、この尾根は険しすぎて馬では登れなかった。

 山羊に乗っているのだとしたら、アルマク人の可能性がある。


 タネルは懐の酒を確認し、固唾を呑んで尾根を見上げた。

『酒ならあるぞ! 欲しいなら降りてこい!』


 いつぞやソグラ城塞に訪れたアルマク人が話すのを聞いて覚えた山の方の訛りを使って声をかけてみる。相手がアルマク人であるならば、この交渉に乗ってくるはずだ。そうでなければ……。


 一番若い兵士がすすり泣き始める。山羊使いの少年だ。この状況に限界を感じているのは、何も彼だけではなかった。


 指も足も、凍り付く風に撫でられて感覚がない。動物が進む度、体が上下するたびに耐えがたい激痛が体中を襲う。


 山は、これほどに過酷だっただろうか。


『……』


 尾根から歌が聞こえた。

 ひっ、と誰かが息を呑む。


 男の声だ。しかし、まだ若い。時折掠れる音を聞くに、まだ声変わりが終わっていないようだ。若く、青く、ところどころに粗野な山育ちの音が混じるそれ。


『我々に繁栄を与えたまえ

 乙女を神に捧げよ』


 その声はタネル達を容赦なく追いかけてくる。

 幻聴かと勘違いするほどによく響き、どこかで微かにこだまする。

 山道にはソグラ兵たちの焦るような短い吐息と、少年の精霊への歌声が響き渡った。


『神の御代に栄えあれ

 神の御代に栄えあれ』

 尾根に誰かが鳥に乗って立っている。


 雲が割れ、光が彼の背後から差す。


 痩せて、隈が深く刻まれた顔が、淡い光によって露わになる。明るい空色の瞳が、恐ろしく冷たいまなざしで彼らを見下ろしていた。


 雲間から射す光が、広げた翼を一本の線のように際立たせ、空と赤い山々を分かつ。まるで、死を宣告しに来た神のように。


 セルカンの胸に、ひやりとしたものが落ちた。


 ほの暗い岩肌。飛び散る汚物。鼻をつく臭気。――祠の扉は、閉めてきただろうか。


「……ナーシル」

 荷鳥に乗った少年の名を、ぽつりとセルカンが呼んだ。

 その瞬間のことだった。


 岩だ。


 音さえも聞く猶予はない。地面から放り出された主人を見て、手綱を握ったままタネルが頭上を見上げる。自分を見下ろす鳥の顔に、あの娼婦の顔が重なった。

 弟を殺す。三つ祠。黒蜂蜜。――タネルの頭の中で、全てが合致した。


「このクソ鳥どもがあああぁぁぁ!!!」


 けたたましい岩や木々が崩れ落ちる音と共に、タネルの絶叫が谷底に木霊する。

 彼らの断末魔の叫びは、尾根まで届かなかった。


 光を飲み込むほどに深い谷底を覗き込んでいたナーシルは、王子殺しという最高の栄誉を前に、そっと荷鳥の背から飛び降りた。


『……人を殺すのは初めてだな』


 山道にはもう誰もいないのに、風の吹く音が精霊たちの囁き声のように音を奏でる。

 細かな霰が降り注ぐ中、雲の隙間から陽光が射し、ナーシルの髪を照らし出した。ナーシルは一度だけ彼らの全能神に祈ってやると、少しでも風が穏やかな山頂を目指した。背後の風が吹き荒れる山には、もう戻れそうになかった。

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