第45話 売り物の涙粒

 息を荒くしたエレナは、ぐったりと寝台に身を横たえていた。真っ白い体には点々と赤い跡と歯形が残っている。屈辱と、大事な商売道具に傷をつけられた怒りでタネルと睨むと、彼は恍惚と笑みを深める。


「そんな顔で見てくれるな……。延長したくなるだろ」

「痛かった。もう嫌」

 大げさに涙を拭って見せても、タネルはむしろ嬉しそうにするだけだ。


 今しがたの悪事をごまかすように、タネルはエレナにそっと掛け布団をかける。乱れた髪を撫でつけて、まるでずっとそうしていたかのようにいたわり始めた。


「そうだよな……。でも、これで罰は終わりだ。次は、もっと優しくしてやる」

「本当に体中痛いの。しばらくお客は取れないわ」

「困った娘だ。生活費まで欲しがって……」


 そう言いながら、タネルはエレナの前に銀貨を三枚、並べて置いた。


「足りるか?」

 エレナは視線を落として頷いた。


 国で一、二番の娼婦が随分安く見積もられたものだが、この手の男は金を否定すると気を悪くする。受け取らなくても気を悪くするため、エレナは静かに銀貨をつまんだ。


「……次は、絶対痛くしないで」

「はいはい」

「他の女の人も買っちゃだめ」

「どうしようかなぁ……」

「だめだから」


 悲し気に言ってやると、タネルは少し目を丸くした後、にやにやといやらしい笑みを浮かべた。


「そうか、そんなに俺が好きか」

 自意識過剰もここまで来ると扱いやすい。


顔を伏せたエレナの耳が淡く染まっているのを、嘲笑ではなく照れだと勘違いしたのだろう。くつくつと彼は笑った。


「心配しなくても、次もお前を買ってやる……お前の弟を殺して、戻ってきてからなんて、いいんじゃないか?」

 エレナが息を詰まらせた。


 タネルが口角を上げる。無意識に彼は口元を覆ったが、嬉しそうに細められる目元は隠せない。


「でも、そんなことできるはず……!」

「『凍える山道、あなたを温めて差し上げたい。三人の神々に祈ります』……随分と熱烈な恋文だな」

「どうしてその手紙を……」


 問い詰めようとしたが、彼女は諦めて目を閉じた。その手紙をタネルが検閲したのなら、イルハンが山越えをする時期も筒抜けだ。顔面蒼白となるエレナをタネルが抱き寄せる。


「どうした? 弟の命乞いでもするか?」

「……お願い、アレクを殺さないで」

「それじゃ、足らないな」


 エレナはさめざめと泣きだした。娼婦を始めてからこの方、泣きまねばかりが上手くなっていく。ある者は狼狽え、ある者は意気消沈し、そして――


「ああ、泣くな。全部終わったら足揚げさせてやるよ」


 ある者は勝った、と勘違いする。


 交渉のための涙など、熱いから流れる汗とそう大差ない。その見分けがつかないのだ。


「……全部、って」

「それは言えないな」

「行かないで。ここにいて」

「はは、女ごときが戦略を妨げられると思うなよ。ここで俺を待っていろ。時期は分かってるんだろう? せいぜい黒蜂蜜で月のものの時期をずらしておけよ」


 ――間抜けな男。

 顔を伏せたままのエレナが口角を上げる。打つ手がなくなって泣き出したのだと勘違いしたタネルは、自分の手巾まで差し出す献身ぶりだ。


 哀れな女の泣く姿を存分に楽しんだタネルは、自分だけさっさと寝台から起き上がると、服を羽織った。足元に投げ捨てた娼婦の服が邪魔だったのか、寝台へ置くと、鼻を啜るエレナの頭を軽く撫で、顎を上げさせた。


「ん。手巾は今度でいい。服を着たら見送りに来てくれ」


 最後の最後まで追加料金が必要な口吸いまでしていく。人を不愉快にさせる徹底的な技術が身についている。女が喜んでいると勘違いさえしなければ、斥候スパイ潰しに最適な人物なのだが。


 やや不満げに頷くエレナを見ながら、タネルは部屋を出て行った。

 手に握った銀貨を放り出して、エレナは慌てて飛び起きて服を着た。一秒でも早く見送って身を清めなければならない。タネルがわざと置いていった手巾を握りしめて部屋を出る。


「ほら、追加料金はこんなものでいいだろ? 次は戻ったばかりだろうから風呂も使いたい。……ああ、この日で頼む」

「はい。ご予約ありがとうございます。確かに、エレナで予約を受けましたよ」


 エレナは絶望のため天井を仰いだ。

 まさかそこまで気に入られるとは。首の噛み跡を見つけた娼婦が気の毒そうな目でエレナを見ている。


「……金じゃなくて手巾を握って出てくるのか。いじらしいな」

「別に」

「はいはい。恥ずかしかったな」


 エレナが指先でぎゅっと握りしめた手巾を満足げに見下ろして、タネルはにやりと笑った。

「戦から戻ったらすぐ来てやる。そんなに拗ねるな」


 タネルはぐるりと娼館を見渡すと、満足げに去っていった。

 疲労のあまりエレナが深々と溜息をつく。全身あらぬ痣と歯形と涎まみれだ。一刻も早く風呂に入りたかった。流石に遣り手もこの有様なら入れてくれるだろう。


「いつになったら足揚げさせてくれるのぉ~?」

「もーお前はしょうがないなぁ~。頑張って出世するから、待っててくれよぉ」

「早くあなたの子が欲しいんだよぉ。ね、ね? もっと頑張ってよぉ」


 丁度部屋から出てきた娼婦が最後のひと頑張りを見せている。声を聞くに娼婦に惚れている兵士と一緒なのだろう。二人はほとんど縺れあいながら遣り手のところへ向かおうとし、エレナを見て息を呑んだ。


「エレナ……! ちょ、ちょっとぉ何それ!?」

「うえっ!? うらやま……い、いややりすぎだろ! ナルギス、行ってやってよ」


 先輩の斥候を見てこぼした涙は、きっと本心からだった。

 エレナは子供のように泣きじゃくりながら、ナルギスの腕に抱かれて泣いた。周りの娼婦ももらい泣きしている。


「うんうん、怖かったね。ね、おばば、今日はもういいでしょ」


 ナルギスがそう言うと、遣り手も深く頷いて同意する。そして、しっかり者の彼女は皺だらけの手で客を呼ぶと、しっかりと勘定を始めた。


 それを何度か振り返って確認し、ナルギスはエレナを外に連れ出した。娼婦たちの休憩所の一番奥。物置には滅多に人が来ない。


「ちゃんとおびき寄せたよ」

 涙を拭ったエレナが言うと、ナルギスが頷く。


「こっちも兵隊長に情報出しといたよ。うまく乗るといいけど」

「自尊心の高い男は扱いやすくていいね。私が惚れてると勘違いしてるよ」


 手首に刻まれた噛み跡を見て鼻で笑うと、ナルギスは困ったように肩を竦めた。


「気持ち悪かったなら『気持ち悪い』って言いな。裏で男の悪口言ったって、誰も文句言わないよ。娼館だから」


 いやぁ、ととぼけていたエレナだったが、信頼する先輩に肩を擦られて大粒の涙をこぼして俯いた。たっぷりの香を染み込ませた男の手巾ではなく、彼女は服の裾でそれを拭った。

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