Chapter-04 無敵の紳士(2)

「つまり、ラヴウィズミーを無視して走る、と」

「いつも通りでいいよ。多分ヤナなら『マークする形で逃げるんだろうなあ』とか思ってるだろうから」

「せやけど逃げたら差されんですか? ラヴウィズミーの末脚やばいですよ。……この後あるし、手堅く勝ったほうが」


 私は『大逃げ』でいいと言う国美さんにそう言った。ダービーの際に出遅れ、だがそれのおかげでロジェが追い込みにも対応できるとわかったので、個人的にこれは使えると思っていた。


 ラヴウィズミーが逃げるならフジサワコネクトのように最後方からごぼう抜きして差し切るほうが勝機は見える気がする。というのも、ラヴウィズミーは追い込み馬に悉く負けており、最後方からの追い上げに対応できていないのが顕著だ。前で競り合うのが得意な馬なのだろう。


 何が言いたいかというと、逃げていると最後差されて負ける、なら見向きもしてない最後方からおもっきし差したろということだ。


 英国GⅠゴールドカップへの事前登録はとっくの昔に済ませている。ここで手堅く勝ち、イギリスへの弾みにしたい。それは国美厩舎と馬主である神代さんの総意。私もそのうちに入っている。



「それもありではある。けど俺はあくまで今のままでいいと思うんだよな。だから、終盤競り合って差して差し返されても差し返す──それができるようになるメニューを組んだ」

「……!! これは……」


 にやりと笑う国美さんから手渡されたメニューには、伴走トレーニングと坂路メニューがびっしりと並んでいる。二度の坂の登り降りをする天皇賞・春では、いかに同じスピードを保ち続けるかが勝負のカギである。


 前の馬が思い切り走ろうが、急に減速しようがずっと同じスピードで、まさに時計の秒針のように走ることが勝利の必須条件。国美さんには本当に頭が上がらない。夜なべしてこれ考えたんやろなぁなんて思いながら、私はメニューを国美さんに返却してヘルメットを被った。



「国美さん」

「ん? どうしたよ后子さん」

「おおきに。……私、ロジェのこと絶対に勝たすから」


 私はそう言ってロジェの背に跨った。向こうから太陽がゆっくりと昇り、栗東トレセン内を照らしていく。ロジェの黒い馬体が陽光を反射して私は少しまぶしくて目を細めた。





 ✤





『────さぁ第四コーナーを抜けて直線へ!! 変わらずハナを進むロジェールマーニュ、二番手ラヴウィズミー、三番手にはフジサワコネクト!! 三者見合ったまま直線へ入る!! 駆け抜けてくる!! 仕掛けどころだラヴウィズミー、いやフジサワコネクトだ!! フジサワコネクト行った!! 逃げるロジェールマーニュに食らいつくのはやはり鉄骨娘だ、逃げる、逃げるロジェールマーニュ、────……ウソだ』


 ぽつり、実況者は言う。それはスタンドにいた観衆へ大いなる衝撃を与えた。だが騎手の耳にそれは届かない。

 私は鞭を二度入れて合図を送り、手綱を握ってロジェを導く。


 直線コースに入る直前、コーナーを回る際に籠めた力を開放し直線へ入った瞬間から爆発的な末脚で後続を一気に突き放す。私の耳に届くのは風が空を切る音とロジェの短い息遣いだけ。降り続く天気雨が私とロジェの体を叩く。だがそれも気にならないほど、スピードが圧倒的に他の馬よりも速い。


 ────当然。なるべくしてそうなっている。


 放牧先の人が入厩までに、柔と剛のバランスを完璧に調整してくれた。国美さんが夜なべしてロジェの調教メニューを考えてくれた。

 そしてきついトレーニングをロジェは全部手を抜かずにこなしてくれた。

 坂路も、伴走も、ウッドチップコースも。


 おかげでロジェは時計を刻むように正確で同じリズムの走りを磨き上げ、エンジン全開が常だったのが『ギアチェンジ』の概念を今まで以上に細かく覚えてくれた。だからこそ──この直線でギアを変えて一気に後続を突き放し、周回していた時を超える加速力で前へ体を運んでいく。



 ────三、四、五、六、七、八



 追い込んでくる馬の足音は遥か彼方。私の耳が拾うのはロジェの息遣いと風の音だけ。私は開けた視界に青々とした芝とゴール板を捉える。

 残り二〇〇。ロジェはそれを気取ったのかさらに加速して一気に駆け抜けていく。風が、音が、周囲には誰もおらず私とロジェだけがそこにいるような気さえして、私は自然と口角を上げてしまう。


 そしてこれが正解なのだと再認識する。

 小細工も、作戦変更も、この〝無敵の紳士〟の前では何の意味も成さないのだと────。


 私は私を超えたかった。でも一人では無理だった。己を超えることの意味は、いつだってこのロジェールマーニュという馬が教えてくれる。



 残り一〇〇、五〇、二〇────



 私はロジェールマーニュの騎手だ。

 だからこの馬を、最短距離で勝利へ導かなくてはならない。

 ただ前へ。ただ、速さのその先へ。


 ただ只管に先頭を進み、心地よい速度に身を委ねて走り続けること。

 それが私とロジェの最適解なのだから。




(そっか。ロジェ。……私、ロジェだけやなくて自分の事も信じてよかったんやね)



 ゴール板の前を通過する直前、ロジェは一瞬スピードを緩めた。

 私はスタンドの観衆に向かって一着を示して──


 そして、ロジェは一気にゴール板を駆け抜けた。






 ✤






 十八頭の馬が全てゴール板を通過して、ほどなくターフビジョンに『確定』の赤い文字が表示され、一着にはロジェールマーニュのゼッケン番号である「1」が表示された。二着との着差は「8」……八馬身という大差をつけられ、ロジェールマーニュの完封完勝であることを観衆と負けた騎手たちに叩きつけた。


 二着には「14」の番号が、フジサワコネクトのもの。結果ラヴウィズミーは三連覇とはならず三着まで順位を落とす結果になった。


 ロジェールマーニュの勝ち時計はそれまでのレコードタイムを四秒近く更新する驚異的な数字で、観衆からも騎手からも、記者からもどよめきと困惑の声が多く上がっている。とてもではないが三二〇〇メートルの勝ち時計とは思えない数字で、ロジェールマーニュの脚の速さがどれ程恐ろしいモノかをその場にいる者へ教えた。生まれ持ったポテンシャルだけでなく、そこに加えて技巧と成長を上乗せすることで更なる能力を発揮してくる。


 ラヴウィズミーの鞍上にいる柳沢俊一は、一度息を吐きだしてまだ露が残っている芝をぼんやりと眺めた。くるりと首を動かして、ラヴウィズミーは「どうした?」とでも言うように耳をせわしなく動かしている。



「完敗だ。鍛えなおしだな、これは」

(そうかぁ? 俺は結構満足だけどな)

「ラヴ、楽しそうだな。……次は勝とう」


 柳沢はラヴウィズミーを帰り路へ誘導しながら優しく頭を撫でてやる。ふと柳沢の脳裏には有馬記念での白綾后子の言葉がよぎった。


『私は、嘗てシャルルを三冠馬に導いた貴方を超えて、馬が誇れる騎手になります』


 その言葉通り、后子はこの舞台で柳沢の前を走り続け、己に足りなかった最後の一つを拾い上げた。

 自分自身への信頼を取り戻した今の彼女ならば、確実に欧州へ向かってロジェールマーニュと共に最高の成績を叩き出すだろうと思う。



 もしかしたら一着になってしまうかもしれない。



 日本馬と日本人女性ジョッキータッグ初のV。夢ではないと思ってしまう。ロジェールマーニュと白綾后子に夢を託したいと柳沢は心の底から思うのだ。

 柳沢が行けなかった場所。シャルルという馬と共に向かうはずだったその場所は、手を伸ばしても遥か彼方、海を越えたその先。


 ──もしかしたら。



『ヤナ。どうだよ、うちのロジェールマーニュは』


 昨年の有馬記念でロジェールマーニュの調教師である国美道長はそんな風に言った。これに対して当時の柳沢は「強い馬。ひやひやした」と、そのように答えたがやはり今ではそんな陳腐な言葉では言い表せないと思う。

 青毛の艶やかな馬体を輝かせ、芝の上を圧倒的な速度で駆け抜けていく。汗一つかかず、かっちりとしたスーツを身に纏ってスタイリッシュに仕事をこなすようなリズム感の良い走り方。


 ネクタイを締めなおす動作であったり、白い手袋を嵌める動作であったり、ちょっとした動作に意識が向く感覚がある。

 バーテンダーが冷静かつ流麗にシェイカーを振って、客に最良のカクテルを提供して酔わせるように、人を引き付ける魅力を内包しその魅力を決して隠さないのに、開けっ広げにすることもない。



「……強い馬だ。強くて、気品があって、まさに────〝紳士〟だね」



 ならばその鞍上にいる白綾后子はそんな紳士によって更に磨かれる、永遠の淑女というわけか、と柳沢はらしくないようなロマンティックなことを考える。

 だがすとんと納得した自分もいた。后子はロジェールマーニュに出逢って変化していったのだから。灰かぶりがガラスの靴を履いて舞台の主役になるように、ロジェールマーニュという馬に導かれるようにして。



(僕と同じだ。シャルルに出逢って、僕の運命は変わった。……これも青毛の血筋、かな?)



 競馬はブラッドスポーツ。血統によって成績が左右される場面が多くある。

 ならば血が呼び合うような出逢いだって、あったっていいじゃないか。


 今は唯勝利した紳士と淑女に拍手を送ろうと、柳沢はラヴウィズミーを帰り路へ導いた。

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