Chapter-03 無敵の紳士(1)

 発走二十分前── ラヴウィズミー陣営




「ロジェールマーニュと后子ちゃん、ハナを進むとは思えないんだよね」


 地下馬道を進みながら、ラヴウィズミーの騎手である柳沢俊一はそんなふうに鞍上で言った。ラヴウィズミーの手綱を握る厩務員は驚いたような表情で柳沢を見上げ、疑問を口にする。

 というのも、柳沢が他の騎手や馬の事に関して言及することが珍しいことだったからだ。普段の柳沢といえば陣営の意見を優先し、自分は控えているような印象を厩務員も覚えていた。


「三二〇〇はロジェールマーニュにとって未知の距離だし、僕らに負けたことでマークする作戦に変えてくるだろう。……他のレースを見ていて思うけど、彼女は意外に手堅いからね」

「珍しいですね。ヤナさんがそういうこと言うの」

「嫌でも意識してしまう相手だからね。……ロジェールマーニュはラヴウィズミーの弟。そして鞍上にいる后子ちゃんは……」

「シャルルに憧れて競馬界の門を叩いたんでしたっけ? ロングインタビューが雑誌に載ってました。そんときの騎手ってヤナさんですよね」

「そうだね。……彼女は、僕に聞いてきたんだ。記者陣を押しのけてね」

「あ~~! テレビで見ましたよ、宝塚記念でしょ?! あれ白綾騎手だったんだ……」


 楽しそうに厩務員は言った。ラヴウィズミーは「おっ? じいちゃんの話か?」とでも言うように耳をピンと立てて話を聞いている。驚くほどリラックスしているラヴウィズミーは、確かな足取りで地下馬道を歩いていた。柳沢は優しくラヴウィズミーを撫でながら話を続ける。


「ああ。后子ちゃんは僕に『どうしてそんな馬が楽しそうなんですか』『どうやったらそんな楽しくしてあげられるんですか』って聞いてきたんだ。そういう質問はされたことがあまりなかったから驚いたのを覚えているよ」

「はぁ……確かに、どうやったらそんな騎手になれるか、とかは聞かれそうですけどね」

「うん、馬のほうをよく見てたんだろうかとか、思ったんだけどね。どうも后子ちゃんにとって騎手は重要ではないみたいだった」


 柳沢はそう言ってふふ、と笑った。癖のある金髪を揺らして、ウィナーズサークルに飛び込んできた少女。記者を押しのけてそんなことを聞いた彼女が今同じ舞台にいるのだと思うと、時間の流れか。はたまた彼女自身の強さがそれを引き寄せたのか。柳沢は感慨に耽る。

 まあ勝つのは僕ら、ラヴウィズミーだけどね、と思ってはいるが。


「騎手が重要じゃない、ですか?」

「まぁ今はそんなこと思ってないと思うけどね。だって当時の彼女、五歳ぐらいだったし。競馬、って言うくらいだから人間はそこまで重要じゃないと思ってたんだろうね」

「でも白綾騎手の騎乗って凄いですよね。なんていうか……騎手がいないように見えるんですよ。馬がとにかく思い切り走っている感じ。でもコーナーリングとかに無駄は一切無いんです」

「確かにね……。馬の我が強ければ強いほど后子ちゃんは強くなる。だからきっと国美ちゃんのところには一癖も二癖もある馬が集まるんだろうね」


 地下馬道の出口から歓声が聞こえる。柳沢はゴーグルを装着して、厩務員が手綱を外したのを見計らいラヴウィズミーを走らせた。

 分厚い雲を割って、陽光が差し込んでいる。天気雨が京都競馬場に降り注いでいた。




 ✤




 誰もがさすがのロジェールマーニュでも、三二〇〇の長丁場をそんな高速で走るとは考えていなかった。

 加えて昨年末ラヴウィズミーに負けていることを考えても、徹底したマークでついていき最後に加速して差す、というラヴウィズミーの走法を踏襲するのではないか──。


 そう、誰もが考えていたのだ。


 何せ公開されている調教内容や、追い切りの様子がそういう作戦を使うとしか思えない中身だったから。スタートが得意な馬であることは以前のレース映像からも皆知っているし、何よりもロジェールマーニュはもともとの脚が速い。


 青毛の血筋は基本皆「逃げ」が得意だ。

 父馬であるシャルルマーニュも、祖父馬であるシャルルも同じこと。


 だから逃げるラヴウィズミーを徹底的にマークする形を取る、皆思っていた。



 だがロジェールマーニュはこの時点で後続の馬郡はおろか、ラヴウィズミーを突き放して六馬身程のリードを保ったままハナを進んでいる。

 掛かっている様子はなく、以前同様に只管〝己の心地よい速度〟に身を委ねているように見えた。一周目はハイペースで進むというのは過去のレースデータからも予想がつくことだが。



 だが────




(────いくら何でも速過ぎる!!)



 白綾后子以外の騎手全員の総意だった。とてもではないが三二〇〇のペースではない怪物的速度で駆けるロジェールマーニュはその速度を保ったまま一周目のホームストレッチへ突入する。


 内ラチ側を走るロジェールマーニュを追いかけるラヴウィズミーは、若干掛かっているのか前に行きたそうに首を上下させる。その後ろに一馬身程の差でいるのはフジサワコネクト。追い込み脚で最後に追い込んでくる彼女がこの位置につけているというのは誰もが予想外(ダービーの際に辛くも掛かって逃げたことで、先行・逃げでも走れると証明されてしまったが)で、鞍上にいる瀬川の勝利への執着がうかがえる。


 旧世代の伝説には負けられないという気概か。

 白綾の背を今度こそ超えるという決意の表れか。

 その心中を知りえるのはフジサワコネクトと瀬川自身だけだ。


 しかし、あまりにも速いペースで走るロジェールマーニュに引っ張られる形で後続の馬たちも速度を上げざるを得ない状況になっている。


 コーナーを回って内回りコースへ入るが、ここから上り坂を昇って下がって、という動作がある。登りが得意なフジサワコネクトはここで来るな、と柳沢は手綱を動かしてラヴウィズミーを前に行かせた。さすがに大逃げしていたロジェールマーニュも、一度は息を入れねば厳しいようで少し速度が落ちる──かと思ったが、一定のペースを保ったまま────。


 一定のリードを保ったまま、坂を全く同じペースで登っていく。

 一定の速度で、一定の息遣いで、一切の無駄な動作がなく────極端に言ってしまえば、時計の秒針がカチカチと正しい時を刻み続けるような、メトロノームに定められた一定のリズムを刻むような。


 そんな走りで坂を軽々と登っていく。二馬身程後ろにいるラヴウィズミーと、その真横にピタリとつけているフジサワコネクトは何故か追いつけないロジェールマーニュの背を睨みつけながら坂を上りきった。

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