Chapter-03 近くて遠い背中(2)


 ラヴウィズミー。ロジェールマーニュ。


 フジサワコネクトは掲示板にいない。瀬川迅一はぼんやりと遥かな背中を眺めた。

 俺は何をしているんだ。こんな不甲斐ない結果を、ダービー馬をこんな風に沈めてしまうなんて。

 焦りが募る。名手へ駆け上がっていく后子を見ている事しかできなかった。着順が出るまでなんとも言えないが、確実に六着以降──というのは体感でわかった。



(迅一……、迅一。ねえ、たまにはわたしの事もちゃんと見てよ)

「……コネクト?」


 瀬川は止まったまま、首をひねってこちらを見ているコネクトの頭を撫でながら必死になって考える。大きな瞳がじっと瀬川を見つめていた。

 勝つための方策。二度とこんな大敗を喫さないための戦法。レース選択。牝馬限定戦なら確実に勝てるか。いや、上には名牝たちがいる。この名馬を、ダービー馬となったこのフジサワコネクトという名馬をこれ以上──これ以上戦績に泥を塗るわけにはいかない。

 俺はどうすればいい。どうすれば、白綾后子に勝てる。


(……いやーっ!!)

「うわ!? ちょ、コネクト落ち着け、ぅおぁ……!!」

(早く降りて!! 嫌い!! もう嫌い、──迅一なんか嫌い!!)


 茂みに向かって突っ込んでいったコネクトは、体を振って思い切り植え込みに瀬川を放り投げた。係員と厩務員が慌てて捕まえに来る。植え込みから必死に抜け出して芝の上に戻った瀬川は、怒っているコネクトを刺激しないように少し距離を取った。


「どうしたんだよ、コネクト……。迅、怪我してないか?」

「すみません、大丈夫です。今日は不甲斐ない結果で申し訳ありません」

「気にすんなよ。そんな日もある。勝ったラヴウィズミーが強かった」


 それだけだよ、と厩務員は笑った。大人しく捕まっているコネクトは耳を絞って、何時でも瀬川を蹴り飛ばせるように臨戦態勢を取っている。よっぽど虫の居所が悪いのか、それとも何か気に障ることをしたのか──瀬川は思考を巡らせた。だが一向に答えは出ず、こちらを睨むフジサワコネクトから視線を逸らし、歩いていく厩務員について少し離れて歩いた。



(迅一の馬鹿。もう知らない。……もう、しらない)



 そんな声が、コネクトの後ろ姿から聞こえる気がした。





 ✤





「ヤナ。どうだよ、ロジェールマーニュは」


 ロジェールマーニュの調教師である国美道長は、馬装を片付けているその騎手に話しかけた。

 柳沢俊一。嘗て、ロジェールマーニュとラヴウィズミーの祖父馬であるシャルルを、無敗の三冠馬に押し上げた騎手である。

 すこしこけた頬が病との戦いを表すようだった。黒髪はグレーになり、同い年の国美よりもかなり老けて見える。


「国美ちゃん……いやぁ……やばいね。強い馬だ。ひやひやしたよ」

「……お前には負けたがな。だが次の天皇賞・春はわかんねえぞ」

「そうだね。后子さんに『望むところです』って言われたし、きっとロジェールマーニュは天皇賞・春に来るだろうね。そうなったら神代さん、馬を出すのはシャルル以来じゃない? 勝てばそれも……シャルル以来の勝ちになる」


 柳沢はそんなことを言う。国美は驚いたように目を丸くして笑った。幼馴染にしかない空気が、わからない間合いが二人の間にはある。冬の冷たい空気が一瞬吹き込んだ。


「何だヤナ、お前。ロジェールマーニュに負けると思ってんのか?」

「まさか。勝つよ。これは仮定の話だろう? 勝敗はその時になってみないとわからないさ」

「ま、それもそうだ。………………おかえり、ヤナ」

「……うん。ただいま、国美ちゃん」


 国美は何も言わずにその場を去った。口元に緩やかな笑みを残してはいるが、心の奥には闘志が静かに燃えていた。次の舞台でロジェールマーニュとラヴウィズミーがぶつかったならば。


 勝つのは、俺たちだ。その決意が国美の心を燃やす。

 柳沢もまた────燃えていた。

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