第四章 黒曜石の輝き

Chapter-01 近くて遠い背中(1)

 ──有馬記念まで残り一ヶ月




 フジサワコネクトの背で瀬川迅一は思う。以前よりも強くなった筈だと思った。だが菊花賞というクラシックの終着地で、着差以上の明確な『差』を叩きつけられた。お互いに前哨戦は使わず放牧から帰厩して、すぐに菊花賞へ直行している──条件はイーブン。


 では、何の差だったのか。


 コネクトは強い馬だ。牝馬の身ながら、三十四年ぶりに日本ダービーを制覇した。皐月賞・菊花賞も二着。牝馬三冠路線に進んでいたならば、確実に無敗で三冠を楽勝したに違いない。


 それほどの馬なのに、ロジェールマーニュには届かなかった。

 ダービーを勝てた事さえ、運だったのかもしれないと思ってしまう。



「……もっと巧くならなきゃな……ん?」

(ねえ迅一、早く行こうよー……)


 ふと音の方を見れば、ガリガリと地面を前脚でコネクトが引っ掻いている。乗り運動をして止まってから随分時間が経ってしまっていたらしい。瀬川はコネクトの首筋をポンポンと軽く撫でて「ごめんな、飽きたな」と声をかけ、腹を押して歩かせる。

 今日はウッドチップコースを軽く走ってから坂路調教が入っている。コネクトならば余裕でこなしてくれる筈だ。

 だが、体内で燻る何かが瀬川の心を焼く。心配そうにコネクトが一度片耳を瀬川の方へ向けた。


 どうやって連敗の中でもモチベーションを維持していたんだろう。瀬川は答えの出ない問いを思い浮かべ、負けてもへこたれず騎乗していた白綾后子を思い浮かべた。

 ギリギリ五着に入着することはあれど、勝ち馬の騎手になることは無かった后子。彼女は己の手で「惜しい馬」と呼ばれていたロジェールマーニュと共にその呪いを打ち破った。


 皐月賞、菊花賞を制して──現役最強の名を手に入れた。そして、有馬が終われば次にロジェールマーニュと目指すのは天皇賞・春だと既に栗東トレセンでは噂になっている。


 誰もがロジェールマーニュの次に期待をかけ、大逃げでレースを制することを期待する。天皇賞・春に挑むのは誰かからの宣戦布告を受ける形になったのか、それは后子とロジェールマーニュしか知らない。


 勝つこと──それ自体に執着したことは無かった。当然の結果として受け入れるだけだと思っていたから。さらに二歳GⅠ朝日杯で騎乗した馬を十一着とまで沈めてしまった事は、瀬川の中でかなり尾を引いていた。


 菊花賞後からレースの結果が全く振るわない。

 今まで当然のように勝ってきたのに、全く馬を勝たせてやれない。

 それどころか負けることを「こんなものか」と受け入れる自分自身がいるのにも慣れてしまった。



『せやけどさぁ』

『次があんで、気張りや』



 菊花賞で后子はそう言った。意図された最高の嫌味をぶつけられ、一瞬怒りが心を埋め尽くしたのを覚えている。

 だがもう怒る気力さえなかった。恐らく次にロジェールマーニュ・白綾后子のコンビと勝負しても勝てない──それが、驚くほど鮮明に見えている。


(……──俺は、もう……きっと)


 ロジェールマーニュに、追いつく騎乗ができない。

 瀬川はそう思い、静かに馬装を収納するロッカーのドアを閉めた。




 ✤




「お、やっぱおった」

「白綾……」

「武内さんがまた寿司持ってきてんで。まぁみんなで食べたらすぐのぉなるさかい、はよきぃや」


 若干顔色の悪い白綾后子が入ってくる。瀬川は少し驚きながら顔をあげて彼女の表情を見た。先輩からの厚意を無下にするのはさすがに失礼だと、瀬川はシャワー浴びてからそっちに行くよ、と伝える。分けといたるわ、とだけ言って后子はジムを出ていこうと踵を返した。


 ピンと伸びた背筋が、この一年間で身についた自信や風格のようなものを表すようで、瀬川は思わずその背中をじっと見た。二十センチ近く瀬川より大きい后子を見上げながら瀬川は思う。



 俺にはないものが、やはり彼女にはある。

 白綾后子という人に感じた才能の片鱗は偽物なんかじゃなかった。



 するとドアを開けて出て行こうとした后子は足を止め、振り返って意を決したように口を開いた。



「瀬川」

「……? なんだ?」


 軽く頭をかきながら后子は振り返る。青い瞳が瀬川を射止めた。何が言いたいのかわからないままだったので、話の続きを催促する。


「……何か言うことあったんじゃないか?」

「ええ加減にせえ」

「えっ」

「舐めんな。馬を舐めんな。ほんまに……自分の才能に自惚れんのもええ加減にせえ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!! 俺は才能にうぬぼれてるつもりなんか」

「ハァ~~~~……そんなんやから嫌われてんのとちゃう?」

「俺は嫌われてないだろ。……た、たぶん」

「少なくとも私はお前のそういうところが嫌いや」

「そんな……」


 唐突に嫌いだと宣言されて瀬川はダメージを静かに食らう。そんな瀬川の様子を無視して后子は話を続けた。



「無自覚に人の神経を逆なでするわ、自分の才能に胡坐かくわ、それに勝つことが当たり前やと思てたやろ。しかも私が勝ったのは才能があったから、なんてクソみたいな答え記者に出しよったな」

「っ、実際そうだろ。諦めない事は一つの才能だと……俺は」

「このすっとこどっこい! ……諦めんことが才能、やと? 舐めやがって。私の努力を、私の日々を、才能なんて言葉で片付けられてたまるか!」



 后子は胸倉を乱暴に掴んで瀬川を睨みつける。氷より冷たい絶対零度の視線が瀬川を貫いた。


 もういい、これ以上話しても無駄や、と后子はどうでもいいように胸倉から手を離しジムを出た。

 嫌に大きいドアの開閉音が瀬川の鼓膜を揺さぶる。遠ざかる彼女の背を、瀬川は呆然と見つめるしかできなかった。


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