Chapter-03 黎明

「なぁ、コース行ったら……好きに走ってみてや。私が合わすから」


 手綱を握って厩舎の外へ導きながら言う。一瞬耳をこちらに向けて驚いたように体を震わせたロジェールマーニュは、その言葉を理解したのか一度頭を下に向けてお辞儀をするような動作をした。


 サラブレッドにしては大きいロジェールマーニュは、私の身長にかなりぴったりな馬だった。平均してサラブレッドという生き物は体高が大体一六五センチ程度ぐらいなのだが、ロジェールマーニュはそれに+五センチ、一七〇センチあるという。どうやら足が長いらしい。


 歩かせて芝のDコースへ向かえば、桜花賞に向けての調整を行うのか世間から脚光を浴びる牝馬たちがいる。青毛のロジェールマーニュは栗毛や鹿毛、芦毛が多い中でかなり目立った。



 ゆっくりと日が向こうから登り、サラブレッドたちの体を照らす。艶のある馬体が神々しいとさえ思えた。



 この光景を見るたびに──騎手を辞められへん、と思う。



 他の馬は芝ではなく、その横のウッドチップコースを走るらしかった。私は芝のほうへロジェールマーニュを誘導しながら考える。ロジェールマーニュには祖父馬にあのシャルルがおる。シャルルも青毛の大きい馬で、脚質は先行というよりかは逃げ一択やった。


 最初っからかっ飛ばしてハナを進み、ぐんぐん加速して後続を恐ろしい速度で引き離していったシャルル。最初から最後まで先頭の景色を譲らず、どんなに荒れた馬場であろうが関係ない。重だろうが稍重だろうが、不良と言われた馬場だろうがシャルルの前では関係なかった。


 そんなバケモンみたいなパワーとスタミナ、そして桁外れのスピードを持っていたシャルル。



 私が憧れたあの青毛馬。額に白い星を宿す、あの牡馬。


 ────シャルル。宝塚記念の大逃げ大差勝ち。

 私は今、その憧れの遺した馬の背にいる。




(……映像でも見る限り、騎手は先行策をやりたがっとったけど、ロジェールマーニュは前に行きたがっとる印象やった。

 掛かっとる、というよりかは────スピードを落とさざるを得ないことが不服みたいな、そういう感じ……まだ早く走れるとか、体力が余っとるみたいな……)



 負け確の私でも、ひとつだけ誇れる特技がある。

 馬の気持ちを汲み取ることにおいては、私が瀬川迅一よりも、他のベテランよりも上を行っとる自信がある。やから。



「ん~~……長いんよな、ロジェールマーニュて」



 ぶるる、とロジェールマーニュは鼻を鳴らした。どこか抗議するような色を滲ませる彼は、私が何かを言おうとするのを待っている。



「ロジェ……ロジェ、て呼んでもええ?」



 鼻を鳴らす音が帰ってくる。ロジェは少し馬銜はみを嫌がるような素振りを見せて頭を振ったが、「好きにすればいい」──そう言われた気がする。

 私は「ならそう呼ぶなぁ」と再び言葉をかけた。ロジェは左前脚を軽く動かして芝を数度踏む。準備運動は万端らしい。



「ロジェ。合わすさかい、好きに走ってや。おもっきし飛ばすのもええし、ゆるゆる走るのでもええ。どんな走りでも私は合わすし、否定せんと乗ってるで────」



 そう言い終わった直後ロジェは爆発的な脚で飛び出して加速し走り始めた。

 思わず一瞬振り落とされそうになったが私はすぐに姿勢を直して態勢を低く、風の抵抗を減らすように全身を折りたたむ。


 いくらなんでも速すぎる。身体を圧縮されるような重力が全身にかかる。


 経験したことのない、信じがたい速さに困惑しながら私は前を見て考えた。体が大きいロジェールマーニュはストライドも当然大きくなる。もともと足も速いのだろうが、一度に進む幅がデカいうえにパワー・スタミナの両方が有り余っていたのだ。今まで前目に着ける先行策で抑えて走っていたこの馬の本来の持ち味は──祖父を遥かに凌ぐ〝大逃げ〟なのだと一瞬で理解する。


 多分私が生まれるより少し前か、「異次元の逃亡者」と呼ばれた馬がいた。その馬は確かに恐ろしい速さで逃げて逃げて逃げて──逃げて、勝つ。


 シャルルも逃げ馬だったがその馬は違うのだ、もともと八馬身近く開いている差をさらに広げていく。徐々に差を広げて逃げるのではなく。まさにその異名は、その馬の姿を現した完璧な異名だった。



 ロジェールマーニュは、きっとそういう馬になる。



 加速は止まるところを知らない。異様なスピードで走るロジェを見る者は皆呆然として、己の馬の調教なんざ忘れてロジェの走りに見入った。視線が刺さるようで嫌だとは思わなかった。ロジェールマーニュという素晴らしい馬の走りを、トレセンではなく今度は競馬場で見てくれと、心の底から思っている自分自身に驚いた。



(すごい……)



 こんなポテンシャルを秘めた馬がいたのか。すさまじい加速で、今までに感じたことのない風圧が顔にかかっているのがわかる。私は鐙をしっかり踏んで手綱をもう一度握り直した。


 コースを一周して直線へ入る。何も指示は出さない。約束したから何もせず黙って様子を見ていた。コーナーを曲がった瞬間に再びロジェは加速し始める。まだ余力があったんかと絶句する。信じられん。こんなすごい馬がおるんか。



「は、はは……!!」



 思わず笑みが零れた。私のあこがれ、シャルルの孫──ロジェールマーニュ。

 想像を絶するポテンシャルと、爆発的なエネルギーを秘めた強い青毛の牡馬。



 ゴールラインを駆け抜ける。そこを抜けた瞬間に足を緩めて減速していく。本当に頭のいい馬だ。どこでどうするべきか、しっかり自分の頭で考えてわかっている。

 なんてすごい馬────こんなすごい馬が私を主戦に迎えて皐月賞へ挑むというのか。


 アホか、私は運がいい。私が負けていなければロジェとは出逢えてない。


 ふと思った。ロジェールマーニュ、この青毛の牡馬が私の終生の相棒になるかもしれん、と。



「……何だ、この時計。いくら何でも速過ぎる。嘘だろ」



 呆然と誰かが呟いた。異様にその静かな声が響く。一九〇〇メートルのレコードタイムを一秒以上超える時計を叩き出したロジェは、「それぐらい当然」とでも言うように嘶いた。周囲を奇妙な沈黙が覆う。



「……すごいやん。すごいやん、ロジェ!! なぁ皐月賞でも大逃げしようや、絶対楽しいで! ぶっちぎりで逃げてぶっちぎりで勝つねん、ロジェならできんで!!」



 横からロジェールマーニュの調教師である国美道長が助け舟を出した。無言でポンポンとロジェールマーニュの首筋を叩き、撫でまわしてほめちぎる。多分彼もこの時計に唖然とした一人で、首からぶら下げられたストップウォッチに表示された数字がいかにその場にいたものたちへ衝撃を与えたのかを物語っていた。



 私はロジェを撫でまわしながら一瞬だけ考えた。


 もし、「全敗の騎手」と嘲笑された私がこの子とクラシック三冠獲ったらどうなるんやろか。


 もし──この子と世界の頂点へ至ったらみんなどう思うんやろか。



 競馬にたらればは禁物だ。

 だが、それでもこの黒い馬に夢を見ずにはいられない。


 私はロジェールマーニュの頭を撫でながら、頭に浮かんだ「勝利」の二文字を鮮明に捉えていた。


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