Chapter-02 惜しい馬
白綾后子が栗東へとんぼ返りとなる、一週間前の話である。
二歳新馬戦は一着。しかしそれ以降のレースはすべて二着か三着という、どうにも勝てない惜しい馬がいた。
真っ黒な漆の如き艶を持つ馬体に、紺色の瞳。父系に無敗の三冠馬が二頭、そして母馬は名牝系の血を引く桜花賞馬。所謂良血馬である。
こんな超良血馬が日高でのんびりと観光牧場のついでにオーナーブリーダーをやっている男の所有馬である──だなんて誰が思うだろうか。
良血馬と言えば誰もが今時は競走馬生産における巨大勢力、ノースファームを思い浮かべるだろう。
そんな馬には、未だ目立った勝ち星がなかった。今は皐月賞の前哨戦である弥生賞の疲れを癒すべく、短期間ではあるが栗東トレセン近くの牧場に放牧されている。ちなみに彼の弥生賞の成績は二着である。
少し癖のある黒髪を後ろで団子状に束ね、無精ひげに白衣という何とも言えない胡散臭さを醸し出している獣医は、放牧地に設置された柵から少し離れてその馬を眺めた。
「……走りそうだけどな」
「でしょ? まぁ君にそれを言ってもしょうがないんだけどね」
馬主兼牧場主の男性は、優雅な雰囲気を纏ってその獣医に話しかけた。にこにこしているが、その顔には困ったなぁという色が見て取れる。このままだとスタリオンステーションなんかには入れねえし、大手で種牡馬にはなれねえな、と獣医は頭の隅で思った。
「そーだな。俺は馬の医者って訳じゃねえし」
「でも競馬はやるでしょ? あ……そういえば君の娘……」
「后子のことか?」
「そうそう。巷で全敗騎手とか言われてる」
馬主はびっくりするほど似てないねえ、と笑って言う。后子は母親に似たんだよ、と獣医は手を振って言い返した。
欧州系の后子の母親、その遺伝子を色濃く受け継いだ后子は金髪碧眼である。鼻筋も通っていて彫も深い。加えて高身長であった。
「うーん。瀬川くんはフジサワコネクトがいるし、もう乗ってくれないよね」
「あの〝鉄骨娘〟か」
獣医はぽつりと零す。牝馬としては有り得ない豪脚の馬は、かつての芦毛の怪物を想起させた。
「あ……后子騎手、進退がどうたらとか聞いたなぁ。
「ハァ!?」
獣医は一瞬固まって、随分けたたましい音量で叫んだ。木に留まっていた鳩が驚いて一気に飛び去っていく。
いつの間にか向こう側に行っていた競走馬もその声に驚いたのか、頭を持ち上げて獣医のほうを見る。じっと見ながらゆっくり歩き、馬主と獣医がいる柵のほうへ向かった。
「えっ聞いてなかったの?」
「知らねえよ!! なんだそれ、要はあれだろ──クビって事だろ!!」
「まぁ落ち着いてよ先生。皐月賞、ロジェールマーニュに乗って出てもらうから」
「神代さん……マジで言ってんのか?」
スマートフォンを操作しながら馬主は言う。困惑が隠し切れないまま獣医は問うた。
確かに娘である后子には勝ってほしい。しかしGⅠレースともなれば話は変わってくる。そんな適当で大丈夫なのか、そんな聞きたいことが山のようにあった。
后子はあまりにもレースで負けている。馬主界隈にもそのイメージは染みついているだろう。
だがこの馬主──神代信二朗はにこにこと、いつも通りの優しい笑みを浮かべたまま一言だけ言った。
「……僕はね、信じてるんだ」
「信じるって、何を」
「──后子騎手が、ロジェールマーニュの思いを完璧にくみ取れるってことを、だよ」
ロジェールマーニュがつまらなさそうに鼻を鳴らした。神代は勝負師の色を滲ませ、面白そうに微笑んだ。
ゆっくり柵に近寄ってきたロジェールマーニュの顔を撫でてやる。大人しい馬だがどうにも食えない雰囲気を感じた獣医は眉根を寄せながら、「お前本当に后子の言う事聞くんだろうなぁ……」と言葉を漏らした。
馬はそんな獣医の心中など知ったことか、という風に草を食み始めた。
✤
気を紛らわせたかったので走り込みに行くことにした。足を動かして地面を蹴り飛ばす。体が熱を帯び始める。呼吸が乱れるのも厭わず私はさらに加速した。
電話口で言われたことを走りながら反芻する。
曰く──
「いや……なんやと思てんねん!!」
叫びながら私は思う。しかも明後日から調教入ってもらいますってどういうこっちゃ。
私やぞ。白綾后子やぞ。
脳内でぐるぐると疑問が巡る。何故、馬主は私を主戦騎手に指名したのか。私では馬の力を引き出すには至らない。
私が乗って、その馬の可能性を潰してしまったら?
私が乗るよりも……瀬川が乗ったほうが────
そんな考えさえよぎる。瀬川にだけは負けたくなかったはずやったのに。
瀬川迅一。すべてを持っている騎手。望まれた騎手。親子三代で騎手のあいつ。
カリスマ性も、騎乗能力も、運も。私が持ってへんもんを持ってて、自分が勝つことは当たり前みたいな顔しとる。死ぬほどむかつくけどあいつの騎手としての能力は私より遥かに上で、あんなん見たら誰だって天才騎手だと認める。
確か、皐月賞ではフジサワコネクトに乗るという話だった。
フジサワコネクト──それは規格外の無敗の牝馬。紅一点で皐月賞に挑むという。
「~~~~……なんで……なんで私やねん!! ぁあ~~~~~~!!」
馬も私も人生がかかっている。
特に競走馬は、競争成績の善し悪しでセカンドキャリアが決まるのだから。私の腕に全てがかかっている──そう言っても過言ではない。過言かもしれへんけど。
グルグルとめぐる嫌な考えは拭い去れないまま、私は顔を洗って適当に髪を整え、プロテクターを着て上からジャージを着る。結局私は己にも見切りをつけられず、執着を棄てられず、そしてまた馬に跨る。
私のせいで馬の可能性を潰すかもしれへん。その思いは常に目の前にちらついた。
だがそれでも任された仕事を投げ出すほど落ちぶれたつもりはない。なけなしのプライドを拾い上げてブーツのファスナーを上げ、金具で脱げないように固定した。
ヘルメットと鞭を持って指定された厩舎へ向かえば、そこには若い男女がいた。
短髪の黒髪に、金メッシュを入れた男性と、化粧っ気のないポニーテールの溌剌とした女性である。
「は、白綾后子騎手!!」
「えっ、あっ、はい……そ、そうですけど……」
ポニーテールの女性がキラキラした顔で私のほうへずいずいと顔を寄せた。若干ひきつった顔で応対しながら考える。
いやいやいやいや、何でこの子めっちゃアイドルに出会ったみたいな顔してんの? 私まだ寝ぼけてんのかな。
しかし手を掴まれた感覚で夢でないとしっかり知覚してしまう。
「っ……あの! 世間ではいろいろ、言われてると思うんですけど……! 私、白綾騎手がデビューした時からずっとファンで! その、えっと……、一緒のチームになれて嬉しいです!」
「あ……お、おおきに……?」
ぎこちない返事を返せば、手を握られたままぶんぶんと上下に振られてさらに困惑する。騎手をやってきて周辺から得た反応と言えば、バッシングか無反応か、はたまた嘲笑か──その三択だった。
正直に言ってファンです、なんて言われた経験はこの方ない。
「おい、その辺にしとけ。……その、今日はとりあえずロジェールマーニュに慣れてもらう方向でメニュー組んでます。軽く追ってください。今日はお互いの慣らしメインですね。余裕があれば強めに追ってください」
こっちのヤンキーみたいな見た目の人調教師やったんや、と若干驚きつつ私は返事をする。既に馬装の済んだ牡馬、ロジェールマーニュは存外に大人しく待っていた。
事前の情報では結構暴れるとか気性難とか聞いとったんやけどな、と思いつつ、私はそっとロジェールマーニュに触れてみる。優しく数度頭を撫でれば目を細めて手に擦り寄るように頭を動かした。
新馬戦以降勝ちの無い馬。七戦一勝、皐月賞に出たとしても私が乗るなら人気は下の下のはず。仮に人気が出ても六番以降となるだろう。
だがそこに疑問が浮上する。私はロジェールマーニュの顔を撫でながら考えた。
何故この馬は、勝てない?
体は明らかに仕上がっている。負ける要因がない。筋肉のバランスも、重心もちゃんと真ん中に落ちており、明らかに足元もしっかりしとる。
しなやかで柔らかく、皮膚は薄い。明らかに馬体を見ても、負ける要素が無い。
勝てる要素しか見当たらない、ポテンシャルの高い馬だと思う。恐らく私が乗ってきた馬の中で一番勝ちに近い場所にいる馬。
でも私が乗ったせいで、負けてしまうかもしれん。
しかし──気性難。
もしかして、と一つだけ思い当たる節があった。もしそうならば、というある種の博打。
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