第二十二話
*
天使こと、安西杏佳の勤める喫茶店から帰宅すると、リビングの方から音がした。つき、と痛む腹の辺りを握り、息を吸ってからリビングへと繋がる扉を開ける。
「ただいま。」
「あ、おかえり。仕事?」
「うん。軽い打ち合わせがあって。」
出掛ける際に、汚れたコートはクリーニングに出したし、ペットボトルも捨てたため、昨夜の醜態の痕跡は残っていないはずだが、それでもどこか落ち着かなかった。
彼氏の蛍はソファに深く腰掛け、テレビで動画サイトを流していた。この様子だと、何も気が付いていないようだ。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、蛍が帰宅することを見越して作り置きしておいた朝食が、ダイニングテーブルの上にラップをかけたまま放置してあるのが目に留まった。
「あれ、朝ごはん食べなかったの。もしかして、体調悪い?」
ご丁寧に『よかったら朝ごはんにどうぞ』などと、書き置きまでしておいたのに。
蛍はこちらに一瞥もくれず、「あー」と大袈裟に溜め息を吐いた。
「フォークとか出てなかったから。」
だから、食べなかった。お前が用意していないから。
言っていないことまで想像して苦しくなるのを、いい加減やめたかった。蛍が発する空気の圧のようなものには勝てず、咄嗟に出そうになった「ごめんね」を噛み殺すことしかできない自分が悔しかった。
「……もうお昼だもんね。何が食べたい?」
「なんでもいいや。腹減ったー。」
「すぐ作るね。」
すぐに手を洗い、それからは昼食を作ることに集中した。自分用の昼食は、蛍のために用意した朝食でいいやと思い、蛍の分だけを用意した。今度はスプーンとフォークも忘れずにテーブルに出し、支度ができた、と彼を呼んだ。
「うわー、美味そう。やっぱ百合奈の手料理が一番だわ。」
そう言われただけで嬉しくなってしまう私は、単純で馬鹿な女なのだろうか。この時、この瞬間だけ、蛍は本当は良い人で、私のために色々言ってくれるだけではないかと信じたくなってしまう。
「そうだ。これから年末にかけて、年末号に向けての仕事が始まってくるから、遅くなる日が増えそうなの。遅くなりそうな時はすぐに連絡するし、なるべくご飯も作るようにするから。」
「そっか。もうそんな時期か。飯のことは気にしなくていいよ。俺も忘年会とかあるし、そうじゃない日は適当に外で済ませるからさ。お互い頑張ろうな。」
「うん。ありがとう。」
やっぱり私は単純だ。今の蛍が本当の蛍で、私を口酷く罵る蛍は本当の蛍ではないと思ってしまう。彼の口元に付いたボロネーゼのソースをティッシュで拭ってあげると、気恥しそうにはにかんだ。
「そうだ。年明けさ、俺の家族に会ってほしいんだけど。予定は?」
「え?」
「俺たち、もう付き合って5年も経つし、同棲してからだって2年だろ? そろそろ家族に会わせてそういう話しても……な? てかむしろ遅い方? なんじゃない?」
蛍は、付き合った当初から頻繁に結婚願望を口にしていた。同時に、結婚したら奥さんには家庭に入ってもらう。子どもは最低2人欲しい。という文言も。
彼と結婚すれば、間違いなく私は仕事を辞めることになる。正直、今の仕事を手放したくなかった。
「一応聞きたいんだけど、蛍は結婚したら私に専業主婦になって欲しい、で合ってるんだっけ。」
「前からそう言ってんじゃん。俺が養ってやるんだから、女は家でのんびり家事やってればいいの。百合奈もその方が幸せだろ?」
ああやっぱり。
机の下でそっと、腹の辺りをぎゅっと押さえた。
結局、年始の予定についてはまだ目処が立っていないため、分かり次第すぐに伝えると返答した。そしてすぐに、私は蛍と結婚したくないのだ、とはっきり自覚した。しかし、こうなってもなお、彼の良い部分を見ては、好きだと思う自分がいる。離れるには惜しい。離れるには、あまりにも長い時間を過ごしすぎた。
結婚はしたくない。でも離れたくはない。相反する気持ちが混ざり、膨らむ。
いや、今は年末号だ。それだけに集中しよう。
そうしてまた、問題を先送りにする。私はそうやって、彼と何度も年を越してきた。蛍と私を結び付けていたものは、運命の赤い糸などという、ロマンチックなものではなく、蛍から伸びる一方的な鎖だったという残酷な現実から目を背け、私はシンクの中で弾ける泡を、光のない目で眺めていた。
コンクリートにスパンコール 北ノ原 紘 @ttt_uu
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