朱に祈りて、我は神を斬る ──かつて神だった女と、神を知らぬ男の物語。
四十川
第1話 邂逅
その日は、平凡な、なんてことのない一日だった。
いつも通り起きて、バイトに行って、コンビニ弁当を食って、帰る。
何ひとつ事件もサプライズもない、ただの水曜日。
――の、はずだった。
「……立入禁止?」
帰り道、いつもの細い道。
一方通行のそこは、見慣れない立て看板で封鎖されていた。
工事中、とあるが、人の気配はない。重機の音すらしない。
「……マジかよ」
まあいい。家に帰るだけだ。
じゃあ、こっちの道から――
「……は?」
反対側も、立入禁止の札。
まるで誰かが、わざと俺の帰り道を塞いでいるみたいだった。
――俺の家は、この二本の道を通らなきゃ辿り着けない。
なのに、どっちも封鎖されている。
工事ならそれで済むが、なにかおかしい。静かすぎる。
……それでも、帰らなきゃならない。
「……家帰るだけだしな。怒られやしねぇよ」
立て看板の横を抜け、無人の路地を歩く。
照明はついているのに、灯りが光を落とさない。空気が、異様に澄んでいる。
妙な胸騒ぎを抱えながら、家の手前、五十メートル。
そこで、“それ”と出会った。
――人の形をしていた。けれど、人じゃなかった。
最初、誰か立ってるんだと思った。ぼんやりとした街灯の下、逆光の影が、じっと道の真ん中に立っていた。
細くて、背は高め。人の形。――でも、違う。
顔が、ない。
いや、輪郭はある。輪郭は、あるのに、そこに顔が“描かれてない”みたいだった。
代わりに、白くて細かい何かが、肌の上を這っていた。――紙? ……いや、札だ。
お札。お守りの裏に貼ってある、あの、神社のやつ。
それが何十枚も、何百枚も顔に貼られて、皮膚の代わりみたいになってる。
ぺらぺらと揺れる音が、聞こえた。
風はないのに、そいつの体だけが、ふるふると震えていた。まるで誰かの祈りがそこに、ずっと滞留してるみたいに。
そして、俺は気づいた。
“見られてる”。
顔はないのに、見られてる。骨の奥に、視線みたいなものが突き刺さってくる。
皮膚の内側がぞわぞわして、首筋の温度が落ちていく。
逃げなきゃ、って思った。
でも、足が動かない。
「おいおい」って声に出してみたけど、それは自分の声じゃないみたいだった。
そいつは、すぅっとこちらに首を傾けた。
札の一枚が剥がれて、目があった。
……目じゃなかったのかもしれない。
けど、俺には、それが“目”だとしか思えなかった。
血走ってもない、濁ってもいない、ただ、真っ白な光の粒のようなものが、俺を見てた。
次の瞬間、ふわり、と“音”がした。
まるで祈りを逆再生したみたいな、文字にならない、言葉のない、音。
……そいつの手が、ゆっくりと、俺に向かって伸びてきた――。
反転、ダッシュ。
さっきまで止まっていた足が、勝手に動いていた。
看板、立入禁止、あれってもしかして、あれがいたから?
考える暇もなく、突然、足が止まった。いや、止められた。
影だ。俺の影を、“それ”の足が踏んでいる。
そして背後、ごく近くに、圧倒的な“何か”の気配。
肩に、そっと、手のようなものが置かれる。
透きとおる爪、六本の指。
鋭い爪は光を受けて砕け落ち、砂のように空気へと消えていく。
背筋を汗が伝う。心臓がバクバクと騒いで、頭がぐらつく。
見ちゃだめだ。振り返っちゃいけない。
……それでも、首が、勝手に。
「ひッ……!」
“そこ”には、真っ黒な影と、たくさんの目玉があった。
数珠繋ぎの“眼球”が羽枝のように連なり、開き、見開き、無数のまなざしが天と地をさまよう。
一瞬、そいつの目線のゆらぎが止まる。そして、次の瞬間、俺を“見た”。すべての目玉が、一斉に。
ぎちぎちと、肩に置かれた“手”が、力を込めていく。そして反対側の手が、俺の首へとゆっくり伸びてきて――掴まれた。
あ、これ、死ぬ。
不思議と冷静だった。
走馬灯なんか見えない。ただ、怖い。痛いのだけはやめてくれ、そう思った。
目をぎゅっと瞑る。
「――そこまでだ」
凛とした声音が、その場に響いた。え、誰かいる?
はっと目を開くと、まるで巫女のような、真紅の袴を着込んだ背の高い女性が立っていた。
目の前が霞んで、はっきり顔は見えなかった。だが長い綺麗な黒髪が、月の光を受けてきらきらと輝いていた。
その人を、そいつが“見た”。途端に、首の手に力が籠もる。
苦しい! 首折れる!
そんな俺の叫びは声にもならず消えていく。
やばいほんとに死ぬ――!
目を閉じそう思った瞬間、鈴の音がして。ついで首を圧迫していた手が、離れた。
新鮮な空気に肺が驚き、咳が止まらない。
また、鈴の音がした。その場に似合わない、澄んだ音色だった。
刹那、体を縛っていたなにかの力がなくなり、その場に座り込む。
「大丈夫か」
頭の上から、声がした。さっきの女の人の声だ。
顔を上げ、瞬きを繰り返す。そして視界に写ったのは――透き通る焔色の刀を持った、超絶美人だった。
夜の帳を下ろしたような長い髪を結い上げ、白磁のような肌。青灰色の瞳。薄く形の良い唇。
正直に言おう、どストライクだ。
「このあたりには“結界”があった。なぜ入れる」
「……めっちゃ綺麗……」
「なに?」
柳眉が、怪しげに歪められる。そんな怪訝そうな顔すら、美しかった。
これは、これはもう、なにをどう足掻いても、一目惚れだ。
「一目惚れです! 付き合ってください!」
気づけば叫んでいた。
その人は三秒沈黙したあと、眉間に皺を寄せる。
「……頭、打たれたのか?」
沈黙。
「いえ、心を打たれました!」
我ながらうまいこと言った。だけどその人の顔はもっと歪んだ。
すごい。ドン引きしてるのが手に取るようにわかる顔してる。
一瞬の沈黙の後、女性がすっと刀を向けた。俺に。
え!? なんで!? っていうかあれ、さっきのやつは?
「瘴気で混乱でもしたか。祓ってやる」
「混乱してません! 正気です! ところでさっきのやつは!?」
「……すでに
祓った、
よくわからないが、まあいないなくなったならいいや!
立ち上がり、一直線に女性に近寄り、空いている手を取った。
「お姉さん彼氏いますか!?」
「……なんなんだ、お前……」
その日は、平凡な、なんてことのない一日だった。
いつも通り起きて、バイトに行って、コンビニ弁当を食って、帰る。
何ひとつ事件もサプライズもない、ただの水曜日。
――の、はずだった。この先もずっとこんな日常が続くんだと思ってた。
「なんで刀向けて来るんですか!? 俺ただ愛を囁いてるだけです!」
「……間に合っている」
「お願いします付き合ってください!」
「やかましい!」
この人に、出会うまでは。
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