双子の章・漆

 金属がこすれるような軋みが遠くから聞こえた。風の向きが変わる。レールが震えている。湿原の遥か彼方に黒ずんだ塊が現れた。影が伸びるようにゆっくり、けれど確実にこちらへ迫ってくる。やがてその正体をはっきりと示す。


 機関車だった。煤けた鋼鉄の塊はまるで何十年も放置されたままのように錆びつき、油の焼けたような臭いを撒き散らしながら無人駅に静かに滑り込んできた。煙突からは黒煙が吐き出されるというより溢れていた。何かが内部でもがいているかのように時折、脈打つように煙が濃くなる。


 扉は音もなくすっと開いた。乗れ、と言われた気がした。


「……どうする?」

「乗るしかないでしょうな。ここまで来て、他の選択肢はありませんもの」


 ふたりして足を踏み入れると、金属の床がきしんだ。中は驚くほど静かだった。どの席にも人の気配すら残っていない。次の車両へ進んでも同じだった。座席はあるが客はいない。網棚に荷物もない。

 

 さらに奥の車両へ進んでもやはり誰もいなかった。車掌も案内人もいない。ただ、機関車は動き出した。発車のベルも警笛もなかった。静かに湿原を離れていく。


 私は座席に腰を下ろし、胡ゐ子も隣に座る。


 車両は静かに揺れていた。心地のいい揺れだった。胡ゐ子は最初のうちはいつも通りだった。話題はくだらない雑学から、昔いた神社の掃除のこと、私が言ったある一言をまだ根に持っているだとか、お喋りは止まることなく続いた。


 しかし、声が少しずつ掠れはじめ、言葉の合間が長くなり、やがて彼女は大きなあくびをひとつ。


「……紫ゑ殿ぉ……眠たくないんです……?」


 そう呟いたあとは、もう自分でも何を言っているのか分からなくなったのだろう。胡ゐ子は座席にもたれかかったまま、とろんとした目をこちらに向けていた。瞳の奥の光が眠気に曇っていく。


 そして、コトリ。


 彼女の額の飾りが微かに鳴る音とともに、その頭が私の肩へ落ちた。


 思わず顔をしかめた。肩にずっしりと体重がかかる。ああ、重たい。邪魔くさい。暑苦しい。けれど見てしまった。無防備な寝顔。長い睫毛。口の端に、うっすらついた唾の跡。眉間に皺を寄せるような癖が残ったまま、でも、どこか子供のような安堵が滲んだ寝顔だった。


「……はあ」


 仕方ない。ほんの少しの間だけなら許してやってもいいか。


 コン、カン、コン、カン……一定のリズムは不思議と眠気を誘う。けれど私は眠らなかった。


 肩に凭れた胡ゐ子の体温が、じわじわと熱を伝えてくる。そのくせ呼吸はやけに静かで、寝息のひとつも立てない。まるで作り物のように穏やかだ。


 窓の外へ目を移す。闇の中に光が浮いている。読めもしない文字たちが、黒い霧の中にうっすらと点滅していた。どれも同じように見えて実はひとつとして同じではない。まるで骸日ノ餞をさまよう誰かの思念が文字に化けて漂っているかのようだった。


 風景と呼べるものはない。木々も家も。ただ闇と靄と文字の海。にもかかわらず不安は不思議と湧かなかった。ここが異界の奥の奥、常識の外側だと知っていても。


 機関車が緩やかに減速を始める。レールの軋む音が大きくなったかと思えば次の瞬間、がたんと大きく車体が揺れて、ぴたりと止まった。そのときだった。それまで窓の外を覆っていた靄が突然のように引いた。濡れた布を剥ぐようにすっと景色が開けたのだ。


 ――あぁ、着いたんだな。


 私は眠る胡ゐ子の頭を軽く揺らした。彼女は目を擦りながら小さくあくびをして寝ぼけた声で「え、もう着いたんです?」と呟いた。私たちは無人の車内を抜けてホームへと足を踏み出す。


 空気が違った。変に涼しくて鉄の匂いが強く混ざっている。どこか血のような匂いにも似ていた。地面の石畳は私たちのいた骸日ノ餞とは明らかに異なっている。整っていて古くはあるが丁寧に敷かれた人工の質感があった。


 ホームを抜けて街に出る。視界に飛び込んできたのは明らかに異なる文明の匂いだった。煉瓦造りの建物が整然と並び、西洋の様式が明らかに色濃い。街を行き交うのは人間ばかりで魑魅魍魎の気配は薄い。かといって完全に排除された世界でもないようだ。私たちのような者が歩いても、人々は物珍しそうに一瞥をくれるだけで騒ぎになることはなかった。


「これはまた……すごいところに来てしまいましたな」


 胡ゐ子が街を見上げて呟く。


 私はかつて鏡越しに見たことのある、外の世界の景色を思い出していた。

 あちらでは車が街を走り、飛行機が飛び、建物はどこまでも高く伸びていた。とてもじゃないが私の足では届かないような現実離れした世界だった。


 けれど――ここは違う。ここはその手前。時代がまだ泥を踏みしめている。人々は文明を手にしたばかりのような顔をしてそれを大事そうに扱っている。


「悪くないわね」


 街の大通りを抜けて適当に裏路地を歩いてみることにした。獬豸が言っていたのは“巡綴”という名の者が神話に通じているということ。そしてこの世界にいる。だが、その巡綴とやらの外見も性別も具体的な居場所も一切聞かされていない。


「このまま歩き回っても埒が明きませんなぁ……」


 胡ゐ子がぼやく。私だってそう思っていた。そんな時、鼻をつくのは焦げた油の匂い。匂いたどって曲がった先に木造の看板が見えた。


 《酔界堂すいかいどう


 居酒屋だ。昼間だというのにもう営業していた。暖簾の奥から漂う魑魅魍魎の気配に私は自然と足を止める。


「人間よりも同胞の方がこういう類の話には詳しいわ。特に酒の場では口も軽くなる」


 そう言って戸をくぐった。


「いらっしゃいッ!!」


 中に入るや否や耳を突き破るような勢いの声が飛んできた。威勢がいいのは結構だが喉が裂けるぞと思う。いや、私の鼓膜の方が先に裂けそうだった。


 店内は油紙の灯りがぼんやりと揺れていた。テーブル席は空いていたがあえてカウンターに腰を下ろす。壁に貼られたよく分からない字面の品書きから適当に数品を選んで注文する。


「昼間っから飲む気ですかぃ? それに代金は?」


 胡ゐ子が私の隣で眉をひそめる。


「まずは腹ごしらえよ。それに代金はちゃんとあるわ。本当はあなたが奢ってくれてもいいくらいだけど」

「へぇぇ? なんで私が……」

「だって旅が終わって私の目的が果たされたら記憶容量の半分をあげるって約束でしょ? 禁忌を犯してでもその量を加える機会なんてそうそう無いわよ。つまり、私は今とてつもなく割に合わない報酬をあんたに約束してるってことになる」

「いやぁ、たしかにそうかもしれませんけども……何と言いますか、私にも少しは情け心がありましてね。そんな重い約束、正直ちょっとビビってますよ」

「後悔しているの?」

「してませんよぉ。私はちゃんと契約書に印も押しましたからねぇ……それに、こうして旅できるの嫌いじゃないですし」


 彼女はそう言って足を組み直した。


 運ばれてきた料理はどれも変わった見た目をしていたが食欲をそそる香りだけは確かだった。人間の料理とは違う調味がされたそれをつまみながら、私は周囲に気配を張り巡らせる。目的は巡綴についての情報だ。店の者でも客の中でも誰かが知っていれば御の字だが……さて、どう出るか。


 紹興酒を二本、追加で頼んだ。濃くて香ばしい酒がとろりと喉を撫でる。少しばかり酔いが回る頃合いを見計らってカウンター奥にいる、鬼の店主に声をかけた。


「ちょっと訊きたいんだけど巡綴って名前に聞き覚えはある?」


 酒瓶を拭いていた手を止めた鬼オヤジは私を一瞥し、それから隣にいる胡ゐ子へと視線を流した。


「さあな。人の名前は覚えない主義でな。すまねぇが手助けはできねぇや」


 親身そうに言う割に内容はすかすかだった。まあ、この手の酒場じゃよくある反応だ。空振りかとため息をついたその時だった。


「なぁなぁ、嬢ちゃんよぉ」


 奥のテーブル席からヌラりとした一つ目の魑魅が二人、こちらへとよたよた近づいてきた。揃いの作務衣に腹だけ突き出たような体形。どっちも顔が似ていて判別がつかない。酔いのせいで足取りもふらついていた。


「もしかしたら巡綴って奴のこと、知ってるかもしれねぇだ」

「おいおい、また適当こいてんじゃねぇぞ」

「ほんとうだってばよ。ほら、神話に詳しいあの女」

「……ああ? あいつ巡綴って名だったか?」

「いや、名前は違ったかも。でも似たようなこと言ってたんだよ。神話だの言い伝えだの死者がどうとか――」

「嬢ちゃん少し話聞かせてくれねぇか?なあ」


 目をぎょろりとさせながら、おっさんたちはカウンター横の席に半ば無理やり腰を下ろした。


「……勝手に座ってんじゃないわよ」

「細けぇことは気にすんなって。嬢ちゃんが何を探してるのか、ちゃんと聞かせてもらえば、こっちも思い出すかもしれねぇし」

「ほんとかなぁ」


 胡ゐ子が口の中でつぶやいたが私は一応乗ることにした。酒場での情報は時に値千金の価値がある。酔っ払いの与太話の中に本物が混ざっていることも無いとは言い切れない。


「分かったわ。巡綴ってやつを探してるの。死者を蘇らせる方法に関係してるかもしれない。手がかりはそれだけ」

「死者ねぇ……うへぇ、縁起でもねぇ」

「でも、それっぽいやついたんだってば。確か銀色の髪で目つきがやたら悪くてどこかの境内に住んでるって……」

「まあ……会えるとしたら拾矢ノ院かもな」


 私は酒の残りを飲み干した。


「場所、詳しく教えて。行ってみる」

「その代わり何か奢ってくれよ。な?」

「結局それが目的か……仕方ないわね」


 私は胡ゐ子の方を見た。彼女はそっと目を逸らした。


「今度こそ私の財布が泣くんですけどぉ……」





 



 腹を満たした後、一つ目のおっさんたちから貰った情報と手描きのくしゃくしゃ地図を頼りに街を進むことにした。


「この線をこう辿って……ここを左……いや、右……ん?」

「ちょっと胡ゐ子、あんたに任せたの間違いだったかもしれない」

「えぇっ? 信頼を踏みにじるのですかぁ」


 実際、地図の読み取りを胡ゐ子に任せたのは失敗だった。本来なら居酒屋から徒歩一時間もあれば着くはずだった拾矢ノ院に到着したのは歩き始めてから二時間後。それでも辿り着いた先に広がるその光景に私は小さく息を呑んだ。


 拾矢ノ院じゅうやのいん――寺とは名ばかりの、まるで異界の宮殿のような規模と構えだった。参道を抜けるとそびえ立つ山門。その左右には人の形を借りた妖の気配が濃密に漂っている。


 門を挟むように仁王立ちしているのは、二体の妖狐。しなやかな曲線を描く肢体に、艶めいた肌。切れ長の双眸には底知れない冷たさと艶が宿っていた。一見すれば人間の美女だが、髪の隙間から覗く狐耳、そして僅かに揺れる九つの尾がその本性を雄弁に物語っている。その佇まいから発される気配は凄まじいものだった。無言のまま立っているだけなのに肌にじりじりと刺さる圧。境内に一歩でも足を踏み入れれば即座に切り裂かれそうな、そんな殺気が微かに漂っていた。


「ちょっとやばくない? これ、普通に入っていいの?」

「お寺っていうより、砦って感じですな……」


 荘厳な屋根、複雑に絡む鬼瓦、鬼灯のようにぶら下がる灯籠。どれもが威圧と妖艶を兼ね備えていた。


「きっと歴史とか曰くとかそういうの、どえらく濃いんでしょうな」


 門の前に立った私たちを狐たちは無言のまま睨み続けている。その視線にさらされながら、私は一歩だけ門へと足を進めた。


 右の狐の着物は白く、左の狐は黒い。風にも揺れず、まるで細工物のようだった。


「ここは拾矢ノ院。往く者の理、問わせてもらう」


 そう言ったのは白の方だった。


「巡綴という者に会いたいの。神話に精通している者だと聞いた」


 黒の方が鼻で笑った。


「神話か。聞きかじっただけで求めに来る者は多いが……その大半は己のことすら語れぬ愚か者よ」

「拾矢ノ院は知を問う門。ここをくぐるには、自らが何者であり、何を望むかを言葉にして通らねばならぬ。言葉は力。嘘や曖昧さはすぐに崩れる……試してみるか?」


 私は無言で頷いた。


 狐たちはわずかに顎を引いて合図を送る。その瞬間、門前の石畳に仄かな光が満ちた。紋様が浮かび上がり、足元に円が描かれる。


「名を述べよ。そして、何者かを語れ」

「九葩紫ゑ。鏡の付喪神。骸日ノ餞にて捕食者を狩ってきた。誰かの依頼を受けて世界の秩序を保つ存在。……でも今はそういうのとは別の理由で動いている」

「望みを述べよ。ただし真を語れ」

「双子の魂を探してる……蘇らせたい。生き返らせたいんじゃない。蘇ってほしい。もう一度、ちゃんと笑わせたい……それだけよ」


 黒狐がふっと微笑んだ。


「言葉に偽りはなかった」

「入るがいい。拾矢ノ院はそのような者を拒まない」


 門が軋んだ音を立てて開く。風が吹き抜け、奥から薬品のような香りと祈りにも似た音が流れてきた。


 門を通るとすぐに長い回廊が続いていた。ピカピカに磨かれた床、灯籠の灯り、そしてどこからともなく響く読経のような声。それは明らかに誰かの声なのに男とも女ともつかず、どこか楽器の音にも似ていた。


 胡ゐ子がぽつりと呟く。


「ここ本当に寺なんですかね」

「さあね。でも普通じゃないのは間違いないわ」


 しばらく歩いた先。回廊の突き当たりに広間へ通じる戸があった。私が軽く手を添えると何もしていないのに音もなくすうっと開く。広間は円形だった。まるで舞台のような空間。中央に一人の人物が座っていた。


 長い銀髪を持ち、肌は透けるように白く、衣の色は墨を流したような濃淡のある灰。年齢は分からない。まるで仏像のように無表情で瞬き一つしないままこちらを見ている。


「……巡綴さん?」


 声をかけるとゆっくりと頷く。彼女はまるで機械のように正確な所作で手を組む。


「汝らの問いに値する対価は用意されているか」


 その声は、乾いていながらもやけに美しく、耳の奥に響く。言葉の意味がどこかずれて聞こえるような、夢の中で語りかけられるような感覚。


「何が必要?」

「忘却あるいは罪。いずれかを置いていくことだ」


 ようするに巡綴は、私たちと対話するための代価として何かしら「大切なもの」を差し出せと言っているのだろう。私は少しだけ考え、すぐに答えを出した。


「私の隣にいるこいつは商人でありながら会計をごまかした前科持ちです。どうぞお納めください」


 隣で胡ゐ子が盛大に咳き込んだ。


「ちょっ! な、何を言ってるんですかぃ!? その話はもう終わったことじゃあないですかぁ……ほり返さねぇでくだせぇよぉ!」

「でも事実でしょう。罪を認めなさい」

「そ、そんなぁ〜。わ、わたしゃもう反省してますよぉ……」

「ということで対価はこいつのちょろまかし分の帳簿でいいわね」


 私はさらっと言ってのけると、巡綴の視線がじわりと私の額の奥を覗くように伸びてくる。皮膚が粟立つ。ふざけていたはずの空気が一気に張り詰めた。


「足りぬ」


 ぴしゃりと水面を打つように巡綴の声が響く。


「それでは軽すぎる」


 私はようやく静かに口を閉じた。ふざけていたつもりだったが、こいつは本気みたいだ。


「代価は魂に触れるものでなければならない。想い、記憶、信念、あるいは――自らの存在の一部……選べ。どの忘却を差し出すか」


 私は顎に手を添えて一つ溜息をついた。目の前に座る巡綴は、依然として人形のように微動だにせず、冷たい眼差しでこちらを見ている。だけど――ふと、頭の片隅にひとつ、使えそうな屁理屈が浮かんだ。ここは寺だ。そして彼女がこの拾矢ノ院の奥にいるということは、相当の地位にある存在に違いない。世俗を捨て物欲を手放し煩悩を断つ者たちの象徴。


 それならば……。


「ねえ、巡綴。あんた、ここでずっと坐しているのよね?」

「問え」

「拾矢ノ院の顔役であり、守り手……それってつまりあなたは徳を積む存在でしょう? 世俗を捨てて欲を断ち静寂を保つ者。であれば見返りを求めるのは本末転倒じゃないかしら」


 巡綴はまばたきもせず、ただ静かに巻物を撫でた。私は言葉を続ける。


「だって欲を抱くことが戒律に反するはずじゃない? なのに代価を要求するなんてちょっとほら、どうなのよ。ねえ?」


 自分でもよくここまでさらっと言えたものだと内心舌を巻いていた。私は真顔を保ったままなるべく柔らかく、しかし刺すような含みを持たせた口調で問いかけた。胡ゐ子が私の袖をくいっと引っ張ってくる。やめてくださいよ、とでも言いたげだった。


 巡綴は長い沈黙ののち、わずかに口元を動かした。


「言葉とは刃なり。斬れぬものも斬れるふりはできる。されど――よく磨かれたものだ」


 まるで皮肉とも賛辞ともとれる口調だった。巡綴はすうっと立ち上がり、背後にある棚の奥から、別の巻物を一つ取り出した。紙は古びていたが、封印されたままであることがわかる。


「問答に値するだけの術量は見せた。代価は――保留とする。後に回してもよかろう」

「つまり?」

「時が来れば、貴様自身が何を失うかを知る。今はまだ、選ぶ覚悟がないだけだ」


 私は小さく息を吐いた。屁理屈が功を奏したかは分からないが少なくとも情報は引き出せそうだ。


 巡綴は巻物を私の前に差し出す。


「アルカディア。それは異界の外側に浮かぶ旧き園の名だ。そこに至る道は神話にさえ明記されていない。だが、一つだけ――かつてそこを渡った存在がいたという記録がある」

「その名を?」

「名は――織見稀音おりみきおん涙峰るいほうの頂に彼はいる。」


 巡綴の言うことが正しければ織見稀音は誰もなしえなかった、この骸日ノ餞の外、時間が調和された誠の世界へと実際に足を踏み入れたことになる。そして「アルカディア」とはまさしくその誠の世界の名だということにもなる。


 つまり私が目指しているのはありもしない幻想ではなく、実在する地だ。ただし、その地に至るための手段は私の知る限りどこにも記されていない。全知全能の神でもない限りその扉は開かれぬということなのか。ぐらりと胸が重くなった。心が急速に沈んでいく。まるで目の前に見えていた道が足元から崩れていくような感覚。しかし諦める理由にはならない。諦めるつもりはない。


 私は双子を生き返らせる。それがどれほど困難であっても道理から外れていても私は行く。


「……胡ゐ子、涙峰へ行くわよ」

「えっ、もうですかい? いや、付き合いますけど……あの、ひとつ聞いても?」

「何?」

「紫ゑ殿ってなんでそこまでして……」


 その言葉に返す言葉はなかった。ただ黙って立ち上がった。答えるにはまだ私の心の中が整理されていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る