双子の章・陸
しばらく歩いて日が真上に差しかけた頃、ちょうど良さげな木陰を見つけた。商人が音を立てて風呂敷を広げ、水の入った竹筒を二本取り出す。そのうちの一本をこちらへ差し出してきた。
「はいどうぞ。あ、口つけてないやつですよ?紫ゑ殿に間接、なんて恐れ多いですからねぇ」
「礼は言っておく」
受け取った竹筒はほんのりと冷えていた。中の水はどこか清らかで、喉にするりと染み渡った。ひと息ついたところで商人が唐突に言った。
「そうだ、私のことを
「あの長ったらしい名前の方があんたらしいけどね」
「ひどい!あれでも立派な由緒ある名なんですよぉ?まぁ、そんなことは置いておき、胡ゐ子の方が短くて呼びやすいでしょう?」
返事はしなかった。呼ぶ気もないわけじゃないが名前のことなど今はどうでもよかった。
休憩を終えて再び歩き出す。山道は徐々に傾斜がきつくなり、足取りも重くなるはずなのに胡ゐ子の口はまるで疲れを知らないらしい。旅の準備がどうだの、昔神社にいたころにどれだけ崇められていたかだの、取引相手がどれだけ嘘つきで面倒だったかだの、どうでもいい話が延々と続く。
「喋り過ぎ」
「え? ああ、すみません、つい。でもほら、無言で歩くと退屈でしょう?」
「山で喋り過ぎると良くない」
「なにかあるんですかい?」
言いかけたところで私たちの背後から、カサリと小さな音がした。振り返らずとも分かる。気配がある。視線を送れば苔むした木立の影に、ぎこちなく動く石と木の塊がちらついていた。
「ひぇぇっ、な、なにあれ!? ば、ばけもの、ばけものじゃないですか!!」
「あんたも、ばけものみたいなもんでしょ」
「私はばけても美しいですけど、あれは……あれはダメですって!」
木々の間から小石のような足音が増えていく。もう五体はいる。十、いや、二十。悪いことに、胡ゐ子の声で余計に引き寄せてしまっている。
「きゃああっ、増えてます増えてますってば、紫ゑ殿ぉ!」
胡ゐ子がわたわたと私の後ろに隠れる。その耳に届くよう、はっきりと言い聞かせた。
「騒がないで。無闇に音を立てると余計に集まってくる」
「は、はい……っ、で、でも、あれ、どうするんです……?」
「処理する」
そう言って、私は渓嚢のひとつに歩み寄る。
手を引かれると自分が絶命する。でもこちらが手を引けばこいつらは命をぽとりと落とす。渓嚢はそういう魑魅魍魎だ。目の前の渓嚢の手を迷いなく取った。
カラン。
音を立ててそいつの胴体が崩れ、苔のついた石と木の塊が地面に転がった。命の痕跡はない。もともとそういう存在だ。生と死の境が曖昧なこの世界では命を絶つ行為にも派手さも、痛みも伴わないことも少なくはない。
ひとつ、またひとつ。私は黙々と渓嚢たちの手を引いていく。彼らの目は無垢だ。抗いもせず、逃げようともしない。まるでそこに存在するだけで充分だとでも言うように。
胡ゐ子が、ごくりと喉を鳴らしたのが背中越しに伝わった。
「……あれって、全部死んじゃったんですか……?」
「そういうもの。ついてこられても困るだけ」
私の手が最後のひとつに触れる。それも静かに崩れて消えるように地に還った。あたりは元の静けさを取り戻した。
「もう平気。行くよ」
「……はい……」
胡ゐ子の声はさっきまでよりもずっと小さかった。
旅に出て数日。ひたすら歩き続ける日々の中で体の奥底からどうしようもない衝動が順番に顔を出し始めていた。
ある日――食欲が暴発する。
「紫ゑ殿、それはもはや食事ではなく捕食では……」
胡ゐ子が乾いた笑みを浮かべ、私の前に並べられた器を見つめている。野草の煮物、干肉の炙り、芋の蒸し物――すでに五、六人分はある。
私は口元を拭いもせずに次の皿へ手を伸ばした。
「も、もう少しお淑やかに食べられないんですか……?」
「……じゃあ見ないで」
胡ゐ子はわかりやすく顔をそむけたが、頬の端が引きつっていた。
ある朝――眠気で機嫌が悪くなる。
「紫ゑ殿、紫ゑ殿、起きてくださいまし!また渓嚢が……!ひゃああ、今度は三体!なんで寝てるんですかっ!」
「……うるさい」
私は薄目を開け、胡ゐ子の肩越しに渓嚢の姿を捉える。
「どいつもこいつも、こっちに触れてほしがって……面倒な山精ね」
「言い方ぁ……!」
手早く一体の手を引き、ふっと煙のように消す。渓嚢の命は触れたこちらが持っていく。殺すというより吸い上げる。慣れた動作に胡ゐ子がひぃっと身をすくめるのが見えた。
そしてある晩――妙な気分。
夜。火も熄え、虫の声だけが続いていた。私はごろりと寝袋の中で身をよじる。汗ばんだ足が絡まる。体は疲れているのに欲だけは律儀に目を覚ましている。
「……ったく。眠れないわね」
*
山を越え、ようやく渓流へと辿り着いた。地図が正しければこの水場は境界へ至る最寄りの地点にあるものだった。ここを越えれば、いよいよ別の骸日ノ餞――見知らぬ異界だ。
その前にもう一度休息が必要だった。疲労は極限に達し、衣の内側は汗と埃で張り付いている。水を汲み、火を起こし、芋を焼く。その香ばしい匂いが漂う中、胡ゐ子がぽつりと提案してきた。
「そういえば、紫ゑ殿。しばらく体を……あの、清めておりませんね」
「たしかに」
私は自分の手首に目を落とした。肌が薄っすらと土に染まっていた。
鏡の付喪神は、定期的に体を清めなければ力を保てない。汚れや穢れを蓄積したままだと、写す力そのものが鈍り、果てには反射すらできなくなる。今の私がそれだ。怒りと憎しみを浴びすぎて鏡のくせに何も映せていない。
「ちょうどいいわね。ここで一度落とす」
私は帯を解いた。胡ゐ子が慌てて背を向けるのが視界の端で見えた。
「ひ、ひとこと言ってくださいなっ!」
「何を今さら恥ずかしがるのやら」
「うぅ……わ、私も……洗おうかな……」
私は何も言わずに冷たい水へと足を踏み入れた。渓流は澄んでいて底の石まで透けて見える。小さな魚が指先をかすめ、山の風が髪を撫でた。静かだった。
私は首筋に手をやり、水を垂らす。冷たさとともに、少しだけ感覚が戻ってくる。胸元、腹、腰、腿――指を滑らせるたびに、曇っていた心も少しずつ晴れていった。いつからだろう、こんなにも穢れに鈍感になっていたのは。
ふと、水の向こうで音がした。胡ゐ子が衣を抱えてしゃがみ込み、そっと足を浸していた。
「ほんとに入るの?」
「そ、それは……その、神様だって汗くらいかきますからっ」
「なら早くしなさい。また渓嚢が来ても助けてあげないわよ」
「うぅ……なんでそんな堂々としてるんですかぃ……」
私は笑わなかった。代わりに手のひらで水をすくい、己の顔をゆっくりとなぞる。静かで清らかな時間。こんな瞬間の中、死んだあの子たちを思い出すと少しだけ胸が苦しくなった。
*
ようやく境界へと辿り着いた。何日歩いたか分からない。どれほど眠り、どれほど食べ、どれほど憎しみと共にいたかも。
目の前には言葉があった。見たことのない漢字が、びっしりと宙に浮かんでいる。だ浮いているだけなのに質量がある。風を押し、空気を歪めている。右にも左にも上にも足元にすら。どこまでもどこまでも続いている。
読めない。いや、読んではいけない気がする。意味を理解した瞬間こちら側の存在ではいられなくなるような、そんな恐怖。
境界の向こう側は透けて見えていた。淡い緑、濃紺の空、鳥のさえずり。風景がある。命の気配がある。だけど手は届かない。
今私たちにできるこの境界を越える方法は、たった一つ。無理矢理に通る。それだけ。そう、それだけなのだ。だがそれは「針の穴に大木を通す」ようなものなどという譬えではまるで足りない。針の穴に宇宙を押し込めるような、呼吸一つで悟りを開くような。思考を向けた瞬間、言語そのものが崩壊するような。例え話が例え話として意味を為さないほどだ。
「本当に行くのですか?」
胡ゐ子の声が背後で震えていた。私は答えない。ただ手を伸ばす。触れれば体が裂けるかもしれない。記憶が逆流し、骨と血が喧嘩を始めるかもしれない。それでも私は行く。あの子たちをこの手で取り戻すために。
手のひらが一つの文字に触れた瞬間、世界がひっくり返った。音も重力も意味も全部が裏返る。だが私は止まらなかった。針の穴に自分という大木を押し込む。ひびが入る。痛みが走る。目の奥で火花が弾ける。
*
二人でなんとか境界をまたいで山を抜けた先、視界が急に開けた。湿った風が肌を撫でる。そこは広大な湿原だった。枯れた芦と澱んだ水が、まるで時間を飲み込んだように沈黙している。そんな中、一本の鉄の線が湿地を真っ直ぐ貫いていた。細く、しかしやけに存在感のあるレールだった。周囲には誰もいない。なのにそのレールはまるで誰かを待っているような佇まいをしていた。
すぐ近くには小さな無人駅があった。板張りのホームにぽつりと掲げられた駅名標。「夷奈原」という文字が風に揺れて軋む看板の上に滲むように記されていた。
「これ、なんて読むの?」
私は胡ゐ子に問う。初見では読めない字面だった。
「えなはら……だと思いますぁ」
彼女は眉をひそめながらも、曖昧に答えた。あまり自信はなさそうだった。
「変な名前ね」
私はぽつりと呟く。まるで呪いの地名みたいだ。
「ま、私たちのいた場所だって負けじと変な名前でしたよ。どこもかしこも異界ですから、変な名前でも不自然ではないですな」
「とりあず、ここからが本当の旅の始まりってやつね」
「ですね」
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