双子の章・弐
咲蘂と兀鞠がきゃいきゃいとはしゃいでいる間、私はふと室内の神棚に目を向けた。なんとなく視線を滑らせただけだったのに、あるはずのものが目に入らなかった。
「あれ……?」
ごく小さくつぶやいた声に誰も気づいていなかった。部屋の隅の神棚、日差しを避けて立てかけている私の本体。鏡がなかった。冗談みたいな事態に私は小さく息を吸った。まるで最初から存在していなかったみたいだった。
「しえねぇー? どうしたの?」
咲蘂の声がしたが、返事はしなかった。
私の姿は人の少女に見えるが、人間じゃない。鏡の付喪神だ。長い時間をかけて映し、記録し、忘れられ、置き去られ、そして付喪神として目覚めた。だからあの鏡がないというのはただ物が盗まれたという話じゃない。
「……悪趣味な奴がいるものね」
背中を冷たいものが這うようだった。
部屋の中に一瞬の沈黙が落ちたあと私はパンパンと雑に手を二回叩いた。庭の向こうから風が鳴った。そのまま縁側を抜けて庭へ出る。
やはりいた。提灯をぶらさげた小娘──
「今日はチビちゃんたちが来ているの。菓子をよこしなさい」
「菓子……、ですか。今日はこれくらいしか持ち合わせてねぇです」
差し出されたのは、小さな竹籠に入った数個の南蛮菓子。中でも目を引いたのは黄金色に光るかすてらだった。私はそれを指差して言った。
「南蛮菓子か。じゃあ、かすてらを四つ。お代は......。あー、ツケでいいかしら?」
「そりゃあ困りますよぉ」
彼女は芝居がかった声で肩をすくめたが目は笑っていなかった。商人としての線引きには一応、真面目らしい。
「記憶の容量、六十秒分でどう?」
言ってから自分でもちょっと出しすぎたかと思った。案の定、相手は目を見開いた。
「ひゃぁぁ、そんなに貰っていいんですかい? 記憶の容量はこの世界じゃあ大切だってのに」
「じゃあ、十四秒ね」
「十分すぎるお代ですぁ。毎度ありがとうございましたぁ」
かすてらを和紙を重ねて作った丈夫な小箱に詰め丁寧に差し出される。私はそれを片手で受け取ると部屋へ戻った。咲蘂と兀鞠はさっきと同じ場所で正座して待っていた。
「はい、仲良く分けなさい」とだけ言って、かすてらの箱をぽいと畳の上に置く。二人がぱっと顔を輝かせるのを背に私はそのまま酒鞠邸を出た。
*
ボロ屋へ戻って私は、古びたちゃぶ台に腰を下ろし、腕を組んで考える。鏡を盗んで得をする奴──もしくは利用しようとする奴。そもそも鏡の力を知ってる者なんて限られてる。そうそういるはずがない。
「まずは聞き込みね」
私は立ち上がり箪笥の奥に突っ込んでいた布袋を肩にかけた。その中には大量の爆竹と予備のマッチが数本。念のためだ。小屋を出て東の山道から南へと降りていく。目指すは里。ここ骸日ノ餞では珍しく、人も神も魑魅魍魎も肩を並べて生きている場所。里は町というには小さすぎる場所だ。けれど村というには雑多すぎる何かが詰まっている。瓦屋根の家屋が軒を連ね、その合間には瓦斯灯が立つ。手押し車の車輪が石畳の上を転がる音。小料理屋の暖簾が風に揺れる。
文明が発展する途中で止まったみたいな街。
──いや、実際止まってるのだ。なにせ、この骸日ノ餞は相当昔に創られた場所なのだから。それ以来、外の世界の時間とは切り離され、この異界の文明も技術もほとんど足踏みを続けている。どうやら、異様に頭の切れる連中が技術開発をしてるという話を聞いたが、それは噂止まりだ。今が何年なのか知る者は数少ない。
昼だというのに今日はやけに静かだった。いつもなら小さな寄席小屋の前で紙芝居屋が子どもに囲まれていたり、茶屋の軒先で三味線の音がしていたりするものだが今日は空気に妙な緊張がある。
餅は餅屋。鏡は鏡屋。骸日ノ餞、里の一角にある鏡の修繕、研磨、加工などを専門に扱う老舗工房「
格子戸を叩くと直ぐに「開いてるわよー」と奥から間延びした声が返ってきた。戸を引いて中へ入ると墨と金箔の匂いが鼻に触れる。そして相変わらず鏡の山。大小の鏡が壁から吊るされ棚に並び、床に積まれ光を反射して乱雑に世界を映していた。
その真ん中、畳に座って何やら鋭利な鏡片を金継ぎしている少女、
「ん、なにしに来たの?」
「私の鏡を失くした」
「は~」
鈴慝は手を止め、ため息とも笑いともつかない声を漏らして立ち上がった。
「下手すりゃ呪具として利用されるってわかってる?」
「わかってるわよ。それで、思い当たる節は無いの。昨日までは酒鞠邸にあったと思う」
「で、記憶は乱れてない? 本体に刻んでた時間の断片とか」
「特にない」
「手がかりは酒鞠邸か、その周辺だね。あと……念のため聞くけど、咲蘂と兀鞠の双子、昨日どこ行ってたか知ってる?」
「ちょっとあんた……、咲蘂と兀鞠が盗ったって言いたいわけ?」
思わず私は声を荒げた。銀楯堂の中は静まり返り、吊るされた鏡たちがぴたりと揺れを止める。
「落ち着きなって。決めつけてるわけじゃないよ」
「ただ、あの子たちはいたずらっ子だからね」
「そうだけど……、鏡には触らないように常々言っているからそんな事はないと思う」
「ふむ。それなら、あとは物理的に鏡がどこかに落ちたか、無意識に誰かに渡したか。もしくは誰かが写し取ったって線もあるね」
「写し取る?」
「うん。〝鏡の面を完全に写す〟術式ってのがあってね。高位の記録術の応用。もともとは神像や札に封じられたものを複写する目的で作られたんだけど鏡のように記録媒体の性質が強いものは、本体そのものを一部、写し取られてしまうことがある。そうなると写し取られた本体も誰かの手に渡ってしまう」
「それってどうなるの?」
「下手すりゃ記憶も能力も部分的に使われる可能性があるよ。場合によっては時間感覚と身体制御の一部も。つまり、自身の影法師が作られるようなもん」
「写し取ったかどうかを調べる方法ってある?」
「あるよ。照応鏡しょうおうきょうを使えば、写しの痕跡は残ってるかどうかぐらいは判別できる。ただ……」
「ただ?」
「この店じゃ無理。照応鏡ってのは術者が対象の場所に出向かないと反応しないの。つまり、酒鞠邸、紫ゑの家、双子がいた部屋、全部巡る必要がある。東から西へ。西から北へ。途中で変な連中に会って爆竹投げて、煽って、ドカンって」
「……あんた、私をなんだと思ってんのよ」
「付喪神、探偵、用心棒、……あ、あと少しだけ強い化物?」
「うるさいわね」
鈴慝を引き連れてボロ屋へ戻った。わたしの家──というにはあまりにも貧相なこの建物は、竹藪の陰に斜めって建っている。屋根は半分崩れ、軒下には野良猫が縄張りを主張しているし、障子は使い捨てたような和紙で無理矢理ふさいでいる。けど、まぁ、これでも落ち着く場所には違いない。
「酷い場所……。これ住んでるって言えるの?」
「人の家に来ていきなりそれ言う?」
鈴慝は草履のままズカズカと中へ入ってくると、小さな金属製の鏡──照応鏡を畳みの上に置いた。
「じゃ、こいつで探してみる」
彼女はなにやらブツブツと短い祝詞のようなものを唱える。すると鏡の面がわずかに揺れて水面のように波打った。
「出た」
照応鏡に浮かび上がったのは、ボロ屋のすぐ裏。背の低い草が生い茂る藪、その中をちょろちょろと流れる細い小川。赤ん坊一人分くらいの幅しかないほどの小川だ。
「うちの裏じゃん」
次いで裏手へ走った。藪をかき分けて小川へ近づくと、水底で何かが光っている。陽を反射して薄くきらめくその形、間違いない。
「あった!」
浴衣の裾なんてどうでもいい。私はしゃがみこみ、冷たい水の中へ手を突っ込んだ。水底はぬるついた藻と細かい砂利で滑りやすく、掴もうとした指先が何度も空を切った。それでもしつこく手を這わせてようやくそれを引き上げる。まぎれもない私の本体だった。
「戻ってきた……! けど……」
鏡の面には蜘蛛の巣のような細かいヒビが入っていた。表面は薄い泥と藻で汚れていたが、もっと気になったのは裏側だ。そこには、シダに似た葉が一枚貼り付いていた。そして鏡本体には油を混ぜた炭で何かの名前が殴り書きされている。文字はところどころ滲んでいて、読みづらい。意味を成しているのか、それともただの悪戯か。鈴慝が背後から覗き込んできた。
「これ
「あの辺り?」
「東の境界地帯、
「境界地帯って……。私の鏡をわざわざそんな遠くまで……」
「浮猊の森には近づかないほうがいい。あそこ、最近境界の歪みが大きくなってるって噂でね。地面が抜けたり、時間が巻き戻ったり、いろんな骸日ノ餞が混ざってる状態らしい。それに朧手草おぼろてぐさは寄生植物だよ。詳しいことはまだ分からないけど人を食うって噂」
「行くしかない」
「え、行くの? 鏡が割れてんじゃん。力とか大丈夫なの?」
「ヒビが入ってようが、爆竹は鳴るし、口も悪い。問題なし。それに私は人間みたいにひ弱じゃない」
「はいはい、強がりはよしなさいな。せめて誰かに同行頼めば?」
「私が誰かを頼るような柄に見える?」
「自覚あるのね」
*
浮猊の森は想像していたよりも静かだった。木々は天を突くようにまっすぐに伸び、その幹は黒く湿った苔に包まれていた。地面はふかふかと沈む。日が差していないわけじゃないのに、頭上を覆う枝葉が光を拒んでいるような、そんな重さがあった。
その中で異物のようにそれは漂っていた。米の香り。別に腹が減ってたわけじゃない。ただ、ここで飯の匂いがするのはあまりにも場違いで不自然だと思ったのだった。匂いを辿って進むと、視界の先に人影が見えた。腐った切り株に座っていたのは、武官装束を纏った女だった。深緑に濃紺の縁取りがされた羽織。襟元をきちんと正し、左肩には金糸で何かの家紋らしき刺繍。腰に差した太刀が抜かれていないのを確認してから私は近づいた。
女は膝の上に風呂敷を広げ、握り飯を手に取っていたその時だった。握り飯を包む指。右手の人差し指と親指の先に黒い煤のような汚れがついている。ほんの少しだけ。
煤、炭、鏡の落書き。まさかね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます