仄暗い焔
秩序へ放り込まれた幾つかの小石は、混沌を産みだすと新たな秩序を成すものだ。その様は凪に湧き立つ波紋がそうであるように、幾つかの波紋と重なり、そのうちに新たな凪へと収束をする。
リードランの秩序もまた、同様であった。
世界に発露する混沌を束ね、言葉で縛ると新たな秩序をなした。
——魔導の胎動。
——魔術の台頭。
——国々の勃興。
——奇蹟の鉱物〈玉鋼〉の誕生。
だがしかし——いつの頃からか——ひとつだけ、秩序を成すことのない混沌が世界に残された。それは、見方によれば秩序であったし正義であった。だか、一方では更なる混沌であり、悪であった——人に根ざした感情がそれだ。
ただただリードランを蹂躙した人類であったが、それは、ひとつの意志に従い澱みなく遂行されたと云える。つまり——そこには混沌と隣り合わせた、澱みなき秩序があったのだ。感情に支配され蹂躙を繰り返したわけではなかった。
では感情の源泉を得たのは何か?
それを敢えて云うならば——見知らぬ感情を最初に獲得したのは、〈リードラン〉中央に根差した人々だ。
そんな彼らは澱みなき秩序を俯瞰すると、えも云われぬ喪失感に襲われた。生きることとは、奪われることと同義ではないかと、蹂躙者を眺め唇を噛み、拳を握った。聞けば大陸の向こうでは、魔導師の祖であったドルイドたちは、子である魔導師たちの迫害をうけ業を奪われたのだそうだ。
明日は我が身であった。
だから、中央の人々は誰のためでもなく、炉に焔をくべ鉄を打ち、誰のためでもなく田畑を耕し自らを護ろうとしたのだ。簒奪されぬよう。培った業も胸のうちに芽生えた得体の知れない騒めきも。
そうして人は人として個を持ち、初めて秩序に争ったのだ。
個と云う外殻へ、混沌——感情を宿したのだ。
だが——そうであると気が付くのは遠い未来のこと。
偽りの英雄譚が謳われた時代はその過程であった。
そう——過程であったのだ。
人が明確に感情と向き合い——罪の中に自由と愛を見出すまでの。
※ ※ ※
「ルゥ。何してんだ?」
ルゥに声をかけたのは、カミーユから張り手をくらった<宵闇>のアラン・フォスターであった。
二人がばったりと顔を合わせたのは、王城ウィンケンティウスに幾つかある内郭の中でも王宮に近しいひとつで、蒼白い月光が綺麗に落ちる小庭園であった。
中央には、いささか小振りな白亜の噴水が置かれているが、蒼白く照らされたそれは随分と神秘的な雰囲気を滲ませている。だからなのか、噴水の際に腰をかけたルゥは、水の妖精なのかと見紛うばかりに儚げな美しさを見せた——大広間を飛び出した際に着込んだ蒼の外套に映った水面の影がそれを手伝ってもいるのだろう。
アランは声をかける前、そんなルゥの姿にハッとすると、酔ったかぶりを——随分と酒をあおった様子だ——激しく何度も振り、あれは妖精なのか? と確認をするほど始末であった。ともあれ、水の妖精はそこには居なく、佇んだのがルゥ・ルーシーであると判ると、今では気安く声をかけ隣に腰を降ろした。
「お酒臭いね、アラン」幼い顔を濁らせたルゥは、少しばかり腰を横にずらし〈宵闇〉のアランと距離を取った。酒の臭いだけが原因ではない。この光景をカミーユに見られでもすれば、また面倒なこととなる。
「すまないな。俺にもよく判らないんだが——呑まずにはいられなかったんだ」アランはルゥに気を遣わせたことに悪びれる様子もなくそう返した。
それもあってかルゥは眉間に軽く皺を寄せた。よく判らない? あれだけカミーユに恥をかかせ、実の娘を落胆させたというのに。そう思うとルゥはさらに顔を顰めた。「よく判らないなんて、よく云えるね」
「そうだな。でも——本当に判らないんだ。いつだって判ったためしがないな——」アランは、かぶりを垂らし、消え入るような声でルゥの侮蔑の言葉へ懺悔でもするように答えた。「——俺は、俺なりに考えて、ここまで来た。でもだ。あのまま、アイツの話を聞いちまえば、俺は何もかも無くしてしまうんじゃないかって怖くなったんだ。金でも払ってアイツと娘を取り返せば良かったのか?」
「さあ、どうなんだろうね。でも、何もかも無くしてしまうってのは判るかな。私が同じ立場だったら、あんたと同じように思ったかも——」一度は、距離を取った腰を少しばかり戻すと、ルゥはアランを覗きこむようにそう云った。「——何、あんた泣いてるの?」
「そういうお前は、どうなんだよ」覗き込まれたアランは、蒼白い光の影にルゥの顔を見ると息を呑んだが、へらず口を叩いてみせた。
実際のところ、少しばかりの共感を得たアランは黒瞳を濡らしていた。
瞳を濡らす原因。アランは、それすら判らず、ただただそうだった。だが、ルゥの共感は少なくともアランの心の隙間を埋めてくれたように感じた。ルゥと言葉を交わすことでアランがアランであることを再び感じると、自分が瞳を濡らしていることに気が付いたからだ。それに、少なからず驚いたアランは、自分の心の隙間を埋めたルゥの共感がなんだったのか——それを知りたいと思ったのだ。
「私も同じようなもんかな」ルゥは顔を戻し小さく云った。
「アッシュか?」
「そう。またルゥ・ルーシーって呼ばれたんだ」
「それの何がいけないんだ?」
「ルーシーさんって呼ばれなかっただけ、マシかな?」
「なるほどな——振られたのか?」
「判らない。だけど、そうだと思う——この気持ちってなんなんだろうね——」ルゥは、かぶりを垂らした。「——私はさ、家を出なければ、どっかの魔術師の家に嫁がされてルーシー家に新たな術式を持ち帰る道具にされたはずなんだ——それが普通だと思ってた。でもさ、フと思ったんだよね。本当にそれで良いのかなって」
「だから家を出て、魔術を捨てて魔導師の道を選んだんだろ? それで良いじゃないか」アランは、気付かれないよう双眸を拭うと、訝しげな顔で云った。
「でもさ——」ルゥは相変わらず、顔を伏せ、言葉を重ねた。「——なんか、ぽっかりと穴が空いたように思ってさ。だからなのかな、誰かに依存して穴を埋めようとしていた。自分が自分で無くなってしまうんじゃないかって怖かったんだと思う」
「だから、男に執着してたのか? 安易だな」またもやアランは悪びれる様子もなく、ルゥの心情を抉るような言葉を放った。だがそれにルゥは、素直にかぶりを縦に振ると「そうかもね——手っ取り早く心を埋めてくれそうだし」と小さく答えた。
その答えは消え入るようだった。
ルゥの云った、ぽっかりと空いた穴に吸い込まれ無くなってしまうようだった。なるほど。ルゥがアランに共感したのは、このことなのだ。自分という価値の喪失。それまで、当たり前だと思っていた殻を破り外へ飛び出した瞬間に不安に襲われる。得体の知れない恐怖。
アランもそうであった。
病に倒れた娘を助けるためと家を飛び出した。
考えれば、アランの妻がその際に云った「その黒鋼を売って王都に行こう」その言葉に従っていれば良かったのだ。良識ある親であれば、娘のため、そうしたのだろう。自慢の〈黒鋼の両手剣〉を売ってしまえば大金が手に入る。
〈黒鋼〉は〈玉鋼〉を精錬し稀に産まれる魔術的にも貴重な鉄鋼。売ってしまえば、一生暮らすのに困らないだろう。だから、それを元手に王都で暮らし、名医に診て貰えば良かったのだ。
だがアランは、それを選ばなっかた。
娘の命を救うという大義名分で、それを拒んだのだ。剣術士である自分が〈黒鋼の両手剣〉を売ってしまえば何が残るのだろうか? 大金と家族との幸せ? 剣術士である矜持を捨てて? それはアランから何もかもを奪うのではないのかと、恐怖を覚えたのだ。
それを思い出し、合点が行くとアランはルゥへ優しく言葉を返した。「俺たちは似たもの同士なのかもな——随分と拗らせてるあたりもな」
ルゥは、それに何故かクスりと笑い「拗らせてるのは、あんただけでしょ——」と、やり返した。「——でも、似ているってのは、そうかもね」ルゥは、そう続けると質素な首飾りに手をあて握り締めた。
エドラス村の騒動からオルゴロス討伐まで、ルゥは燻んだ深緑の外套を好んで羽織っていた。だからだろう。その首飾りの質素さが強調されることはなかった。だが、今は式典のための華々しくも清廉な正装をまとっている。それゆえに首飾りの質素さがまじまじと強調された。アランは、改めてルゥの胸元のそれに気が付くと、距離を詰め首飾りを指で引っ掛けた。「お前のこの首飾り、昔の男の……その……思い出の品とかなのか? それとも教会の?」
その時だった——それまで静かに音を立てていた白亜の噴水が、少しばかり勢いよく水を噴き上げた。水飛沫が蒼白の月光に照らされ、白銀に輝いて見えた。淑やかな着水の音が二人の間に流れると、ルゥはハッとして「ちょっと、近いよ——」と、アランを押し退けた。「——これはね、おまじないの首飾り。あたしの願いを成就するためのね。王都で会った〈白銀の魔女〉って人に貰ったんだ」
「〈白銀〉の?——」アランは、その名に幾許か顔を顰め、言葉を詰まらせた。
アランの運命を、ここまで引っ張ってきたのは大貿易都市セントバの〈白銀の薬師〉と今まさに大広間に居座っている〈白の魔導師〉だ。その魔導師に至っては、妻を貴族へ引き合わせ
だから、白という言葉——名に警戒心を持っている。
しかしだ。セントバと王都クルロスでは随分と距離が離れている——それであればルゥが云った〈白銀の魔女〉は関係ないのかも知れない。
アランはそう胸中に、ひとりごちると不思議そうな顔でアランの言葉をまったルゥへ続けた「——ああ、いや。良いんだ。気にしないでくれ。それでだ、お前の願いってのは、お前の心を満たしてくれる出会いってところか? それでアッシュのことで頭がいっぱいなのか? あいつが、お前の心を満たしてくれると?」
「そうだね。でも、もう良いの。脈なしだよ。最初っからね。二年も一緒に旅をしたってのに気が付くのが遅いって話。なんなんだろね、この気持ち。暖炉の火に焚べて燃やせれば良いのに……」ルゥは噴水があげた水飛沫を横顔に背負い、癖のあるブロンド——綺麗に結われていたが——の横へ少しばかり乱れ出た髪を耳にかける仕草を見せた。
※ ※ ※
「あの馬鹿、どこに行ったの?」
カミーユは王宮近くにある内郭へ出るための階段を小走りに降りながら、誰に云うわけでもなく言葉を溢した。
彼女は騒動のあと、やり過ぎてしまったかと思いアランに謝るつもりで、大広間へ戻ったが彼の姿を見つけることが出来なかった。あったのは、アランの
カミーユは、それに更に腹をたてもした。
だが、アランの心情を考えてやることを失念していたと、後ろめたさを感じると沸々とした怒りを腹の底に収めた。
どうにも子供が大人の事情に振り回される姿を目にすると、我を忘れてしまうのだ。
エドラス村への任務前もそうだった。〈灯台砦〉奪還作戦の時のことだ——敵陣営の魔術師たちが見せた非道な術式——子供の命を供物にした魔術を目の当たりにすると、上官の命に背き単身で突撃、あわや自身の命も落とすところだったのだ。
もっとも、その一件がなければ、エドラス村への任務もなかったし、この場に立つこともなかった。それを考えれば、心中複雑な思いもしたが、ともあれ大広間でのカミーユは冷静でなかったと云っていいだろう。
それであれば、もう一度アランと話し、身の回りの整理をしてもらうよう説得するためカミーユはアランを再び捜しに大広間を後にしたのだ。
カミーユが駆け降りた内郭への階段は、緩やかな螺旋を描きながら外へ続く廊下まで降りている。
その所々で壁面に穿たれた小窓から内郭の様子を見ることができた。
通りすがりに目をやれば、蒼白い月光に照らさた幻想的な小庭園がそこにあることが判った。綺麗に幾つも区画され密集した芝の上に、ふんわりと揺蕩う蒼白い靄が、いっそうと幻想的——神秘的な雰囲気を醸し出している。
幾らか段数を降りたカミーユが次に小窓を見ると、小さな白亜の噴水に気がついた。それも、やはり蒼白い月光に照らされ神秘的な装いを顕にしている。小庭園を幻想的に見せている蒼白の靄の出所はそこだろう。
あと少し——最後の小窓に差し掛かると、噴水の淵に蒼い影と黒い影が佇んでいるのが判った——黒い方はきっとアランだ。カミーユは、そう思うと更に足を早めた。
豪奢なドレスの裾が、邪魔で邪魔で仕方がなかった。早くアランと話をしなければ。気が急いたカミーユであったが、足を早めた理由は別にもあった。蒼い影。あれは、誰なのだろうか。影の線から察するに恐らくあれは——女だ。
※ ※ ※
「アラン——何してるの?」
はたして、急ぎ足で内郭の小庭園へ弾け飛ぶよう姿を現したカミーユの最初の言葉はそれであった。
黒の影のかぶりと蒼の影のかぶりが、ひっそりと重なっている——きっと唇を重ねているのだろう。カミーユの見立て通りで黒の影はアランであったし、相手は女だった——次第に月光に照らされ、顕になったアランと唇を重ねた蒼の影の正体。それは、ルゥ・ルーシーだったのだ。
「ごめん、カミーユ! これは違うの!——」
気持ちを押さえつけたカミーユの震える声が聞こえるとルゥはアランを突き飛ばし、そう叫んでいた。
しかし、本当に間違いなのだろうか。
場の雰囲気に流され、いささか強引に唇を奪ったのはアランだった。だがどうだろう。それを拒んでいれば、カミーユを傷付けるような光景を見せることはなかったはずだ。しかしルゥは流されたのだ。流されることを選んだ——仄暗く胸の内を穿つ穴を埋めるために。ひとときで良い。たった今——この瞬間さえ、胸の苦しさを紛らわすことができればと。するとルゥは首飾りを握りしめ、飛び跳ねるよう立ち上がり言葉を続けた。「——ごめん。やっぱり違わない。もういいや……」
「カミーユ、これは……」突き飛ばされ、噴水に転げ落ちたアランも跳ね上がるよう立ち上がると、弁明の言葉を吐こうとしたが、それはカミーユの言葉に掻き消された。
「アラン、もういい加減にしてしてくれる? ちゃんと事情を二人に説明してくれってお願いしたわよね? その上で、あんたがルゥとくっ付くってなら、それはそれで良いよ。あたしは、もうゲンナリだけどね。二度と顔も見たくない。でも、それならそれで、後腐れなくて良いでしょ? ルゥ——あんたもアランの事情を知ってるクセに何で? もういいやってなに? 少なくとも、アランの娘にとっては全然良くないでしょ。 良い大人が子供に隠れて何してんの? それとも、あんたがまだ子供だってこと?」アランの弁明をかき消したカミーユの怒りの言葉は、心底呆れ返った声音で放たれた。
ほんの少しでもアランに同情をした自分に怒りを覚えていたのもある。だが、それよりも何も考えず、あまつさえ被害者であるのような言葉を吐いた二人に心底腹を立てた。だからだろう。随分と辛辣な言葉を浴びせていた。
今や、カミーユの顔は怒りで紅潮していた。
※ ※ ※
「カミーユは良いよね」ルゥは、かぶりを垂れ相変わらず首飾りを握りしめながら、そう溢した。
「何がよ」カミーユは怒りに任せ、大股に二人のもとへ歩き始めた——ルゥの答えによっては両頬を張り付けてやろうと思ってだ。売り言葉に買い言葉。もう冷静で居られるほどカミーユは、できた大人ではない。
「あんたは、何でも持ってるから、選べるから、そんな風に強く居られるんでしょ?」
「何でも持っている?」いよいよカミーユはルゥの目前で立ち止まり女魔導師を見下ろすと、酷い剣幕で答えた。
「アッシュが駄目なら、アラン。アランが駄目なら……次は誰にするの?」
「は? あんた何を云ってるの? 男の話しかしないわけ?」
「違うよカミーユ。何でも選べる立場から見下ろす風景は絶景なんでしょ? って訊いてるの。だったらアランは、あたしに頂戴よ」ルゥは自分を見下ろした、カミーユを見上げると眼光鋭く、珍しく声を荒げて見せた。するとどうだろう。握りしめた首飾りが、紅く仄かな輝きを放ったように見えた。
「だから、それはそれで良いって云ってるでしょ。その前に、あの男に責任を果たさせろって云ってるの。それも判らないの?」カミーユは、ルゥが握りしめた首飾りへ幾許かの注意を払いながら、少しばかり穏やかな声で云った。声をこのまま荒げ、ルゥを刺激するのは良くない。そう、カミーユは直感したのだ。
「責任ね。責任。責任。責任。そう責任。この旅の中で、あんただけが、その責任ってのに従順だったよね。あんただけが、真っ当な責任ってのを果たすことが使命で、それを果たした。でも他のはどうだったの? アッシュは名誉を与えられず、アランは妻子を奪われて、ギャスパルも何かしらか影を抱えている。あたしには何も残っていない。でも、あんたは責任ってのを果たして、何でも持っている——」ルゥは掠れた声で呪うよう言葉を続け、カミーユを押し除けた。そして自ら噴水に足を入れると、呆然としたアランの元へ歩き、言葉を言い終える頃には彼の前で足を止めていた。
「——だったらさ。その責任ってのは、カミーユが果たしてやってよ。あたしはアランと傷を舐め合うから」そして、ルゥはそう云うとアランへ身体を預けるよう、彼の胸に手をあて、顔を添わせた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、二人とも——」アランは、それに目を丸くするとルゥの両肩を優しく掴み身体を離しながら言葉を続けた。「——俺が悪かった。ちゃんと話す。だからもう勘弁してくれ」
「だったら早く行ってやりなよ。大泣きしてたわよ——あたしは、会議に興味はないし、明日には〈灯台砦〉に帰るよ。その魔導師が云う通り、責任は果たしたからね」未だルゥが握りしめた首飾りから注意を外さないカミーユだったが、アランの言葉に答えると、踵を返そうとした。それに、アランは「ちょっと待ってくれ」と未練がましく声を挙げたが身体が思うように動かないことに気がついた。
何かがおかしかった——踵を返そうとしたカミーユも、未練がましく追おうとしたアランも異常なまでに身体が重くなり、そうすることができなかったのだ。
再び小振りな噴水が、慎ましく水を噴き上げた。
すると周囲に水飛沫が薄らと振り撒かれ、蒼白い月光に照らされた。
次には、小さな風が吹き込んだ。
それは奇妙なことだった。王宮近くの内郭は比較的に風が吹き込まない構造になっている。そこへ、不自然な風が流れたのだ。
すると風の音と、少しばかり噴き上がった水の立てる音が混じり合った。
そして、それを縫うよう小さく儚げな声が聞こえた。
それは、あの質素な首飾りを引きちぎり腹の辺りへ押さえつけたルゥのものだった。「どこへ行くのアラン? もう何処にも行かないでよ」
アランとカミーユは、ルゥの姿に釘付けとなった。
今やルゥの首飾りは真っ赤に輝いていた。
そして、不自然な風はルゥの身体から吹き出ている。その証拠に、彼女の正装は赤の輝きに照らされながら波打っている。外套のフードに至っては、解けたブロンドと共に激しく揺れていた。
そして、次の刹那。
ルゥは苦しみ始めると、その場に蹲り苦悶の中に何やら云っているのが判った。「みんな、あたしを道具だと思っている。道具。道具。道具。家の道具。仲間って道具。気晴らしに抱ける道具。もう嫌だ。あたしが、何をしたっていうの」
再び風が吹き込んだ。
今度の風は、熱を帯びると周囲の水気を全て消し去った。次にアランとカミーユが感じたのは、肌を焼くような熱風だった。
「ルゥ! その首飾りを捨てて!」叫んだのは、身体が硬直したカミーユだった。
カミーユは旅の始まりから、あの首飾りに、そこはかとなく違和感を感じていた。
だが、そう云ったことに聡いアッシュ・グラントは何も言及をしてこなかった。だからカミーユは思い過ごしだと、たかを括っていた。でも、それは失敗だった。事あるごとにルゥは、エドラス村の悲劇は自分のせいだと云っていたではないか。そうだ——その元凶は、きっとあの首飾りなのだ。
だがカミーユの言葉は遅かった。
遅すぎたのだ。
もっと前に——エドラス村で、納得の行くまで話をすればよかった。それで、ルゥも救われたかも知れない。そうカミーユが後悔した時だった。蹲ったルゥの周囲が激し赤く輝き始めると、いよいよルゥは身体を噴水の中——今や水は消し飛んでいた——に横たえ、膝を抱え込んだ。そして苦悶の声を挙げた。「もう駄目。あたしを一人にしないで。誰でも良いから、あたしの傍にいて。悪魔だって良いからさ」
するとどうだろうか。
ルゥの言葉を最後に、周囲の赤い輝きは絶頂を迎えると——耳をつんざく轟音と共に大爆発を起こしたのだ。
小振りな噴水は跡形もなく吹き飛び、カミーユは内郭の壁に身体を叩きつけられ、今や燃え盛る小庭園に身体を横たえた。
「アラン……ルゥ……」二人の名を力無く呼んだカミーユは、必死に意識を保ち、できうる限り惨状へ目をやった。だが、二人の姿はハッキリとは見えない。燃え盛る炎の中に、影が二つ見えるが——三つ目も見える気がする。
もう一つの影は何なのだ。
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