第33話 手紙
「じいさん、ありがとう。感謝する」
朔は、礼をいう。
「ほっほ……わし1人じゃから、好きに休んでいくといい」
骨ばった手で、老人は彼らを迎え入れた。
室内にはわずかな干草と、小さな炉。
それでも、砂嵐を凌げる空間は、
彼らにとって地獄とは思えないほど温かかった。
陽葵は小屋の隅で、埃をかぶった一枚の額縁を見つけた。
写真だった。
色あせてはいたが、そこに写っていたのは――
笑顔がまぶしい、美しい女性の姿。
「……おじいさん、この人……すごく可愛い人だね!」
陽葵が目を輝かせて声を上げると、
老人はゆっくりと振り返り、ふっと目を細めた。
「……わしの自慢の娘なんじゃ。名前は、マリア」
「マリア……ちゃん?」
「今は、遠いところに行っとるがのう……
強い子でな。ほんに、誇りの娘じゃった」
夜になると、老人はボロ布で包んだ何かを持ち出してきた。
「たいしたもんはないが……これしかのう……」
包みの中には、干からびたような、小さくて硬いパンが四つ入っていた。
「それ……おじいさんの食料じゃないの?」
陽葵が心配そうに尋ねると、
おじいさんは小さく笑って首を振った。
「水のお礼じゃ。わしのことは気にしなくてええ。
……皆を見送ったあと、わしも娘のところに行こうと思っての」
その言葉に、陽葵が目を見開いた。
「そこでは腹いっぱい食べられるから……気にせず、食べなさい」
パンは、歯が欠けそうなほどに硬かった。
けれど、それでも――涙が出るほど、ありがたかった。
「ありがとう……」
陽葵は胸に手を当て、そっと頭を下げた。
奏多が、パンを両手で包みながら呟く。
「味がするものが食べられるだけで……こんなに嬉しいんだね」
「僕も、食べよっと!」
黒墨 理玖が勢いよくかぶりつく。
「かっ……硬ぁ〜い! でも、美味っ!」
陽葵はくすりと笑い、
朔は無言で黙々と食べていた。
「お水もあるからね〜」
陽葵が氷を作り、焚き火で溶かして水を分ける。
「ふやかしたら、ちょっと柔らかくなるかも……!」
陽葵は、自分のパンを半分にちぎると、
そっとおじいさんに差し出した。
「はい、おじいさんも半分こ!」
「わしのことは……」
「ううん、皆で食べた方が美味しいよ!」
その言葉に、奏多が少しだけ自分のパンをちぎって陽葵に渡した。
「……僕からもちょっとだけ」
朔も無言で、同じように小さな欠片を陽葵の手のひらにのせる。
そして、最後に残ったのは――黒墨 理玖だった。
「……ぬぉぉぉ!? あああ……この愛の連鎖……尊いッ!
いえ、硬いッ! このパン、硬すぎて涙腺が決壊しマスぅ〜〜!」
理玖は、涙をこらえるように震える手でパンを見つめる。
それでも意を決してちぎったそれを、陽葵に差し出した。
「……理玖お兄ちゃん、泣いてる……」
「い、いえいえいえッ! これは決して涙ではございませン!
じょ、情という名のスパイスが、ちょ〜〜っとだけ、目に染みただけデス!」
ぷっ、と陽葵が吹き出すと、皆がつられて笑った。
パンは硬くても――
心は、確かに、やわらかくなっていた。
そして夜が更けてゆく。
焚き火の火がぱちりと弾ける音を聞きながら、
誰もが安らぎを感じていた。
そうして皆、笑顔のまま、静かに目を閉じるのだった。
*
翌朝、陽が昇ると同時に、旅の準備を整えた。
「……その格好じゃ、ちぃと目立つかもしれんの。
この布を、頭から被っていきなされ」
そう言って、淡い色のボロ布を4枚、順に手渡していく。
「町の者も……鬼も……皆、何かを隠しながら生きとる。
姿が見えても、目だけは見せんようにな。
……余計な争いを避けるんじゃ」
布は擦り切れていたが、柔らかな手触りがあった。
どこか――おじいさんのぬくもりが、残っているようだった。
奏多はそれを両手で受け取り、深く頷く。
「……ありがとう、おじいさん」
おじいさんは、最後まで丁寧に見送ってくれた。
「その街の東の外れにすみれっちゅう、ばあさんが町のレジスタンスの頭をやっとる。わしの……昔の女房じゃ。別れてもう長いが、一本筋の通った女じゃけぇ、きっと力になってくれる」
その言葉に、奏多たちは軽く驚いた顔を見せる。
「え……おじいさんの奥さんだったの?」
陽葵が目を丸くする。
「むかし話じゃ。今さら戻ろうとも思わん。……けど、あいつなら、この戦争を終わらせる道を見つけてくれる気がするんじゃ」
どこか遠くを見るように目を細め、じいさんは手紙を奏多に手渡した。
「この手紙を、渡してくれんか。すまんが、わしの代わりに……頼んだぞ」
「もちろん、責任持って渡します」
奏多は真剣な目で頷いた。
理玖も笑いながら肩をすくめる。
「ふふっ、恋文の代理配達人か。なかなか粋な依頼じゃないですか、じいさん♪」
じいさんは笑って首を振る。
「恋文じゃのうて、ただの――手紙じゃよ」
その言葉に、一瞬、風が止まったような感覚があった。
そして、旅立ちのとき。
「おじいさん、また来るよ!」
陽葵が笑って手を振る。
「来んでいい。次来たとき、わしはもう娘のとこで暮らしとるからな」
冗談のように笑ったじいさんに、朔は静かに頭を下げた。
「温かく迎えてくれて、感謝する」
「礼を言うのは、わしの方じゃ……」
「水も、たくさん飲めた。おまえさんらと話せて、幸せじゃった」
「……ありがとう」
ふと、じいさんの目が潤んでいるように見えた。
「……みんな、気をつけて行きんさい。その先は……もっと酷い世界じゃけぇの」
それが、最後の別れだった。
奏多たちは再び、餓鬼道を歩き出す。
熱と飢えと死の匂いが混じった大地を踏みしめながら。
次なる町へ――希望を繋ぐために。
*
どれだけ歩いただろうか。
乾いた空気の中――
ドンッッ。
銃声が、風に乗って届いた。
「……おじいさん……?」
陽葵が振り返りかけたその時、
朔がそっと肩に手を添えた。
「……行こう」
その声に、陽葵は目を伏せて、頷いた。
誰も、振り返らなかった。
ただ――彼の残した手紙だけが、
彼の“生”を、静かに証明していた。
*
小屋の中。
老人は、ひとり静かに腰を下ろし、
割れた窓の外に目をやった。
「……マリアよ」
懐かしい名を、ぽつりと呟く。
「お前が行って……もう五年。
わしも、そろそろええじゃろ」
「最後に……誰かに希望を渡せた。
水も……うまかった」
そう言って、古びた銃をそっと構えた。
「彼らの行く先に……幸あらんことを」
ドンッッと乾いた音が鳴り、
それきり、小屋の中は静寂に包まれた。
その命は、静かに、
穏やかに――終わりを迎えた。
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