第4章 餓鬼道編

第32話 戦火の大地



新たな地獄の門をくぐると、そこはまるで砂漠のような荒れ果てた大地だった。


視界を遮る細かな砂塵が風に舞い、太陽のような球体が天に二つ――灼熱地獄に似た熱気が漂っているが、それよりも湿度を含んだ不快な空気が肌にまとわりついた。


 「……蒸し暑いね。まるで熱帯の雨季みたい」


陽葵がうっすらと額の汗を拭う。肌にまとわりつくような熱気は、まるで魂を焼く灼熱地獄の余韻のようだった。


「今の気温、たぶん五十度近いぞ。けど、灼熱よりはずっとマシだ」  

朔が周囲を警戒しながら呟く。


陽葵が手を翳し、冷気の結界を張る。四人を包むように涼しい空気が広がり、わずかに安堵がもたらされた。


「ありがとう、陽葵。」


「うん、任せて!でもなんだろう……久々の感覚、お腹、空いた……」


彼女の言葉に、周囲の全員がぴくりと反応した。


「――それが、餓鬼道だ」


朔が低く呟く。


 「地獄の中で唯一、食料が必要な場所。飢えと渇きが魂にまで染み込む、最も醜い地獄の一つだ」



 「さらに水も、ないね……」


乾いた唇をなめる。喉が焼けるように渇いていた。


その時――


「……あれ」


奏多が立ち止まった。


目の前に、何かがあった。


白骨化した死体。


一体ではなかった。二体、三体……いや、それ以上。

陽葵が奏多の後ろに隠れる。


「……これ、全部……?」


奏多が呟く。そこら中に、骨が転がっていた。

朽ちた衣服、武器の残骸。中には、まだ腐りきらない死体もあった。


 

腐臭が、風に乗って鼻を突く。


 

頭が痛くなるような死の匂い。


 

この場所には、確かに命があった。  そして、それは、跡形もなく奪われた。


「なんて匂い、僕は鼻がもげそうだよ。」



その時――


パンッ……!


乾いた音が空気を裂いた。


「……銃声だ!」


朔が振り返り、全員に指示を飛ばす。


「遮蔽物を探せ! あの岩陰へ!」


奏多たちは走った。


バリアの冷気が乱れ、陽葵が一瞬ふらつく。


「陽葵!」


「……大丈夫、走れる……!」


 

倒れた死体の間を縫うように、岩の裏へ身を隠しながら、小高い丘に登ると、その先に広がっていたのは――地獄の戦場だった。


 

東と西、二つの勢力に分かれた鬼たちが、粗末ながらも銃のような武器を手に、互いを殺し合っていた。


――また、銃声。


続いて、怒号と、何かが爆ぜるような音。


「……戦争、してる」


息を呑んだ奏多の目に、遠くの炎と黒煙が映った。


 

すると――遠くから、連続する金属音と地響きが聞こえてきた。


 

パン、パンッ……ッ!!


 

乾いた音が空に溶け、すぐに悲鳴と怒号が重なる。


 

「援護しろォ!! いいか、逃げるガキも撃ち漏らすなッ!!」

「ヒャッハアアッ! 女と子どもだろうが皆殺しだァッ!!」


乾いた連続音と共に、銃口が火を噴く。

土煙の向こうで、西の集落――逃げ惑う者たちの列が、次々に崩れていく。


老いた鬼が杖をついて逃げようとした瞬間、銃弾が太ももを貫いた。


脚がちぎれたように吹き飛び、老鬼は悲鳴すら上げる間もなく地面に叩きつけられる。


「……た、助け……っ」


「うるせェ、ジジイが喋んなよォ!」


東の兵が笑いながら銃口を向けると――

老鬼の顔面が破裂した。


「やめてぇぇええッ!!」


陽葵の絶叫がこだまする。


その目の前で――母親が、幼い我が子を抱いて逃げる。

だが、その背中に、無慈悲な銃弾が突き刺さった。


「――っ!」


肉が裂ける鈍い音。母親の身体がぐらりと傾き、

子どもごと地面に倒れ込む。

泥に染まる髪。真っ赤な血が、泥と混じってどろどろに広がる。


「ママァ……ママ、ママ……ッ!」


腕の中でもがく子ども。

だがその背中にも、容赦なく――パン、と銃声。


――ピク、ピク、と震えた身体は、すぐに動かなくなった。


「やっべ、当たっちゃったよ〜? ま、いいか。ガキもいずれは兵になるんだろぉ?」


「きゃははッ! ほら見ろよ、親の死体の上で泣いてるとこ、マジうける!」


兵士たちの笑い声。

それは狂っていた。

この世界では、殺すことが正義であり、殺される側が悪なのだと錯覚させるほどに。


陽葵が走り出そうとした。


「行かせて! あの子たちが、あの子たちが――!」


「ダメだッ!!」


朔がその腕を掴む。怒鳴るように。

その手は震えていた。


「間に合わん……行っても、おまえも……ただの的だ」


銃声は続く。

呻き声が、断末魔が、地鳴りのように響く。


「……っ!」


見ているしかなかった。耳を塞いでも、銃声は止まらない。

血飛沫と断末魔と、狂った笑い声が入り混じる。


子どもを守ろうとした鬼の父親が、頭を撃ち抜かれた。母親は声を上げながら、血だまりの中に沈む。


逃げ遅れた少女が、瓦礫に足を引っかけて転ぶ。


「待って……っ! やだ……やだよぉぉ……!」


その小さな背中に、男たちの銃口が向けられる。


「撃つなよ〜? 俺が一発で眉間、当ててやっからさァ……!」


「よし、外したら次は好きにしていいってルールでなァ!!」


ひとり、またひとりと、命が泥の中に沈む。


少年が弟を庇い、背中に十発以上の銃弾を受けて崩れ落ちた。

鬼たちの死骸は、すぐにただの肉塊へと変わる。


「うっ……ぐ……ッ」


奏多も拳を握る。

母親の死体。吹き飛ばされた子どもの頭部。逃げようとした老人の胸を貫いた銃弾。

 

地面が、赤黒く染まっていく。


 

そんな中、ぽつりと、理玖が呟いた。


 


「地獄に落ちたってのは……まさに、これのことだねぇ」


 


低く、乾いた声だった。


「理玖……」


奏多が思わず名を呼ぶ。

 

けれど、理玖は続ける。


 


「見捨てたら後悔して、助けようとして死んでも意味がなくて、最悪なルールの世界だよ。……あーあ、笑えるくらい、何もできない」


 


顔に笑みはない。


「いつもの調子で喋るな……!」

朔が押し殺すような声で言う。


 


「いやいや、これが素だよ、朔?笑ってないだけマシってやつでしょ」


 


銃声がまた響いた。

今度は、逃げ遅れた幼児を踏みつけ、顔面を蹴り潰すように殺した兵士が、興奮気味に叫ぶ。


「このクソガキ、潰れる音、最高じゃねえかッ!」


狂気だった。

怒りよりも先に、吐き気が込み上げる。


陽葵が震える声で呟いた。


「……どうして……こんなの、地獄より酷いよ……」


 


理玖は一歩、陽葵の横に立つ。


「……うん。でも、逆に言えば――地獄の底ってのは、誰かがこうして作るってことだよ」


 


淡々と、ただ事実を言うように。

それが、彼なりの怒りだった。



目の前で起きているのに、何もできない。


罪悪感が、胸を焼いた。


銃声が止まない。 どれだけ叫んでも、どれだけ願っても、この世界では「力がない者」から順に壊されていく。


「これは――現実にも、あった地獄なんだろうな」


奏多の声は、震えていた。


「僕たちは……ニュースの中でしか、知らなかったけど」


画面越しに流れた戦争の映像。

 

小さな子どもが泣き叫び、母親が血まみれで倒れ、街が焼けていく――。


でも、あれはただの映像だった。

 

スイッチひとつで消える、どこか遠くの話。


今、目の前で広がっているこの惨状は……その地獄が、確かに存在していたことの証明だった。


 

目を逸らさなかった陽葵は、静かに言った。


「……見なかったことには、できないね」


その声は、泣いているようで、泣いていなかった。


 「……くやしい」


小さく、唇が震えていた。


 「くやしいよ……。どうして、弱い人から殺されなきゃいけないの……」


痛みと怒りと、どうにもならない無力さと。


そのすべてが混じった声だった。


「……昔来たときは、ここまでじゃなかったはずだ」

朔が苦々しく呟いた。



「……とりあえず、先に進もう」



黒煙の向こうから銃声が響いたあとも、しばらくはその場から動けなかった。


やがて、静寂が戻る。


それでも、空気は変わっていた。


焦げた匂い。熱。漂う死。


やっとのことで朔たちは歩き出し、戦場の余波を避けるように、南へと進路を変えた。







そして、しばらく歩いた先――


一軒の掘っ立て小屋を見つけた。


 「……誰か、いるのかな……?」


陽葵が不安そうに呟く。


朔は周囲に目を配りながら、慎重に扉を叩く。


 「……開いてる」


中から、かすれた声が返ってきた。


そこにいたのは、やせ細った白髪の鬼の老人だった。


敵意はなさそうで、むしろ優しげな眼差しでこちらを見つめていた。


 「よく……ここまで来れたのう……。あんたら、旅人かね……」



「み……水を……」

老人はかすれた声で懇願し、よろめきながら手を伸ばしてきた。

「もしあれば……水を、くれないか……」



老人のような人がよろめきながら手を伸ばしてくる。だが、彼らも水を持っていない。


 「……待って。氷なら、作れる……!」


陽葵が手を翳し、空中に氷を生み出す。


陽葵が困ったように周囲を見回し、小さく尋ねる。 「……あの、何か、水を入れるものって……ありますか?」


老人は少し驚いたように目を見開き、それから腰の袋をごそごそと探ると――

布で包まれた、古びた金属のコップを差し出した。


奏多が氷を溶かしてコップに水を入れ、それを陽葵が丁寧に渡す。

老人はその場に膝をつき、ぶるぶると震える手で口元へと持っていく。


嗚咽をこらえながら、泣きながら水を啜った。


 「……ありがとう……ありがとう……」


安堵と感謝のこもった声。


「じいさん、この地獄に何があったんだ?」


そして彼は語り始める。


「ここはな……もともとは、ただ飢えに耐える地獄だったんじゃ。

けど……10年ほど前から、鬼たちの戦争が始まった。


昔、ここには大きな町があったんじゃ。

けど50年ほど前、新しく来た鬼どもが、その町を武力で奪いおった。


そしたら今度は、元々住んでた鬼たちが、銃を手にして奪い返そうとしたんじゃ。

それからは、もう地獄も地獄じゃ……子供も母親も、皆、戦いに巻き込まれて死んでいく……」 


その話を聞いた陽葵は、再び決意を込めて言った。


 「……朔お兄ちゃん、奏多お兄ちゃん、理玖お兄ちゃん。もし、またさっきみたいなことが起きたら、私は見て見ぬふりなんてできないよ」


朔がゆっくりと陽葵に視線を向ける。


「陽葵、それは……全ての鬼と戦う覚悟がいる。お前も、今まで以上に苦しむかもしれない。それでも助けたいか?」


陽葵は迷わず、静かに、けれど強く頷いた。


​「私は、みんなに救われた。だけど、あそこにいる子供たちは――みんなに出会う前の私と、同じなんだよ」


​その言葉は、刃のように三人の胸に突き刺さった。


奏多は、地獄に堕ちる前の、孤独だった自分を思い出し、強く頷いた。


理玖は、いつもの笑みを消し、照れたように、しかし真剣な眼差しで空を仰ぐ。

「……参ったな。そんなこと言われたら、この僕も黙ってられないじゃないかぁ」


「奏多お兄ちゃん、理玖お兄ちゃん」


そして朔は、何も言わずに陽葵の頭にそっと手を置いた。それが、彼の答えだった。

「……そこまで覚悟があるなら、わかった。やれるだけ、やってみよう」 






 「君たち、本当に行くのか?そこは……ここ以上の地獄だよ。」


おじいさんの声には、深い哀しみがにじんでいた。


「ああ、俺達には立ち止まるって選択肢はないんだ」


「おじいさん、心配してくれてありがとう」


陽葵が微笑むと、老人は少しだけ目を細めた。


「なら今日は良かったら、泊まっていきなさい。

何もないとこじゃが、せめて身体を休めることはできるはずじゃ」

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