第26話 凍える世界で
その頃、僕たちは吹雪の中を必死に歩いていた。
空が唸り声のように吠え、地鳴りのような轟音とともに、地獄の風が牙を剥いた。
まるで世界が、僕たちを拒絶しているかのように。
「ここに、入ろう……!」
かろうじて見つけた岩陰の洞窟に、陽葵を抱えて滑り込む。
けれど、風は岩壁の隙間さえ突き抜けてくる。寒さは容赦なく、僕たちを蝕んでいった。
「陽葵……大丈夫……?」
声をかけても、返事はない。
陽葵は意識を失いかけ、唇は紫に染まり、かすかに震えていた。
僕の張ったバリアでは、まったく太刀打ちできなかった。
手の感覚も、足の感覚も、もうほとんどなかった。
呼吸も、浅く、苦しい。
(このままじゃ……陽葵が……)
そして、僕も……。
どうすればいい?
……朔さん。
あなたなら、どうしますか……?
答えは返ってこない。
胸の奥に、冷たい風だけが吹き抜けた。
そんな時だった。
ふと、ある言葉がよみがえった。
「奏多お兄ちゃん……あの子、寒くないって言ってたの」
「え?」
「……私たちは寒くてたまらないのに、あの子は平気そうだったね……」
陽葵が聞いた子鬼の言葉。
あれは――おかしい。
こんな地獄の吹雪の中で、寒くなかった?
その時は、鬼だからだと納得していた。
でも、違う。あの顔――寒さという感覚すら知らないような、ぽかんとした表情。
(まさか……この寒さ自体が……幻!?)
でも、それなら……なぜこんなに苦しいんだ?
もし幻だとわかっていても、それだけで打ち破れるほど簡単なものなら――こんなに僕達は苦しんでない。
僕は立ち上がった。
迷っている時間はない。陽葵を救うには、今しかない。
僕は、外套の端を裂いて、目隠しにした。
視覚がこの幻を作っているなら、遮ってやればいい。見るな、そうすれば……!
僕は目隠しをしたまま、洞窟の外へと出た。
――吹雪。
強く、冷たい風が容赦なく襲いかかってくる。
(……寒い……!!)
まるで氷のナイフだ。目を閉じても、寒さは消えない。
凍える感覚は、本物のように僕を刺す。
(……違う……!?)
僕の仮説が……間違っていたのか?
いや、違う。
幻なのは間違いない。でも、僕はまだ――負けているんだ。
心が、魂が、この寒さに屈してる。
なら……!
僕は膝をつき、歯を食いしばり、叫んだ。
「寒くなんか……ない……!!」
声は震えていた。けれど、魂は燃えていた。
思い出せ――!
灼熱地獄の、あの苦しみを。
陽葵を背負って、焼けただれた地面を歩いたあの日々を。
汗が滝のように流れ、呼吸すら焼かれた、あの灼熱の記憶を――!
「……暑い……! 暑いんだ……!」
「ここは寒くなんかない! 頭がクラクラするほど暑くて……息も苦しくて……!」
記憶の中の熱が、僕の心を焼く。
寒さを押しのけるように、灼熱の記憶が脳内を満たしていく。
「もっと思い出せ……! あの苦しみを、あの熱を……!!」
「――僕の仮説は、合ってるはずだ!!
なら、打ち破れ……この幻を!!」
その瞬間だった。
一瞬、熱風が吹いた気がした。
世界が、砕けた。
氷の鎖が砕けるように、風が止まった。
目隠しの奥で、光が差すような感覚が走る。
心の奥から、熱が……魂の熱が立ち上がってくる。
幻が、崩れた。
吹雪は消え、周囲の空気が静まり返る。
僕は、ゆっくりと目隠しを外した。
そこには――変わらぬ氷の世界が広がっていた。
だけど、もう寒くなかった。
体を包んでいた幻が、もうそこにはなかった。
「……やったぞ……!」
僕は振り返り、洞窟へ走る。
あの中に、陽葵がいる。
今度こそ、助けに行く。
今度こそ、彼女をこの幻から連れ出すんだ。
――洞窟の中で、陽葵はまだ震えている。
僕が戻ってきたことにも気づかず、目を閉じて唇を噛んでいる。
幻だと伝えても、この寒さは本物として陽葵に襲いかかっている。
心が傷ついていればいるほど、この地獄は牙を剥く。
今の陽葵には、幻を打ち砕くのは難しいかもしれない。
(……じゃあ、僕がやるしかない)
その時、僕の中で、誰かの声が響いた。
「魂は、お前自身だ」
「想いが強ければ、力は応える」
朔に聞いた言葉が脳裏に蘇る。
(そうだ。魂の力は……想いだ)
(なら、僕が温かさを思い出して、それを……陽葵に包み込むんだ)
僕は、陽葵の体に手を添え、そっとバリアを張っていく。(届け――!)
脳裏に、母に手を引かれた帰り道の、日だまりの温もりを思い描く。(この温もりを、陽葵に――)
教室で笑ってくれた、たった一人の友だちの顔を思い出す。(あの時の、心の温かさを、陽葵に――)
そして、灼熱地獄で、ボロボロになりながらも彼女が向けてくれた、あの小さな微笑み。
(君が僕にくれた、この温もりを、今度は僕が君に返すんだ――!)
「死なせはしない……!」
バリアの発動には、限界があった。
寒さは、心を凍らせる。
僕の想いなんかで、本当に助けられるのか。
――それでも。
その願いだけが、僕を動かした。
陽葵の体に手を添え、そっとバリアを張っていく。
頭の先から、足の指先まで。
温かい光のような魂の膜が、彼女を包むように。
「死なせはしない……」
「この世界に来て、僕が初めて……守りたいって思った子なんだ……」
僕はそっと、彼女の手を握った。
眠る彼女の手は、冷たかった。
でも、どこかで、僕の想いが伝わることを祈って
僕はそのまま、彼女のそばでずっと、バリアを張り続けた。
何時間が経ったかはわからない。
洞窟の外は、まだ吹雪いていた。
でも僕の意識は、彼女から離れなかった。
――そして。
「……ん、んぅ……」
かすかに、小さな声がした。
陽葵が目を開けた。
その目には、もう怯えた色はなかった。
「……不思議だね……寒くないよ……」
彼女は、ゆっくりと視線を動かし――僕の手を見た。
繋いだままの手。
そこから、彼女の全身にバリアが張られていることに気づいたようだった。
「……また……助けられちゃったね……」
「奏多お兄ちゃん……」
陽葵は、微笑んだ。
その笑顔は、ほんの少しだけ、泣きそうに歪んでいて。
でも、それ以上に――温かかった。
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