第3話

 バス停の上にある屋根は、なんの役にも立たなかった。


 横から雪が吹き付けてくる。重く粘りつくような雪だ。


 発車時間を十分過ぎても、バスはやって来なかった。

 智也は寒さに震えた。ダウンジャケットを着た上半身はかろうじて暖かさを保っているが、冷えは足元からのぼってきて、身体がぐんぐんと冷えていく。

 

 空港前のロータリーは、どこか見知らぬ荒地のようだった。舞い上がる雪で視界が狭まり、ロータリーの向こうにあるはずの林も道路もほとんど見えない。

 

 タクシーもいなかった。こうなる事態を早々と察した者が、市内へ向かって乗っていってしまったのだろう。

 

 建物内に戻って待とうか。

 

 そう思ったとき、建物内からバス会社の名札をつけた中年の女性が走ってきた。

 彼女の説明によると、急な雪のせいで空港に向かう道路に事故が起こり、バスの到着が遅れているという。


「申し訳ありませんが、バスが到着次第アナウンスでお知らせしますので、建物内でお待ちください」

 こんな雪には慣れているのか、バス会社の名札の女性はのんびりと言った。それとも、乗客がたった三人だから、あまり大ごとに思えないのかもしれない。


 建物に戻り、智也はカフェに入ることにした。雪の中での事故なら、一時間は待たされるだろう。そう思ったからだ。


 ロビーと硝子で仕切られているカフェには、テーブル席が三つしかなかった。

 店内には、長い髪をした学生風の女の子がいるだけ。ちょっとけだるい感じで坐って、熱心にスマホを操作している。彼女の向こうには大きな画面のテレビがあり、この県の宣伝動画が流れている。


 入口に近いテーブルに荷物を置き、カフェオレを買いに行くと、うつむきがちな若い男の店員が、コーヒーを煎れなおしているところだと言う。出来上がり次第運んでもらうことにして、智也はテーブルに戻った。


 この分では、宿のチェックインに間に合わないかもしれない。

 少々遅れたところで大目にみてくれるような家庭的な宿だが、だからこそ到着時刻の変更はしっかり伝えなくてはいけない。


 スマホを取り出して、連絡の電話を入れようとしたとき、窓硝子越しに見えるロビーのベンチに、比企野が座っているのが見えた。


 何をしているのだろう。

 智也は電話番号を打つ手を止めて、比企野を見つめた。


 彼の座るベンチのまわりに荷物は見当たらなかった。まるで、近所の公園に出かけてきたといったふうだ。

 だが、目つきが公園で時間を潰す人のそれとは違っている。

 ある一点を見つめては、また別の一点を見つめる。

 それは、何かを探っているかのような目だ。


 比企野の視線が、流れた。

 入口の自動ドアの前から、ゆっくりとトイレのほうへ。


 比企野は清掃員を見ているのだった。

 ブルーの作業着を着た初老の男性清掃員を、比企野の視線は追いかけている。


「お待たせしました」


 ふいに声をかけられて、智也は思わずスマホを落としそうになった。

「カフェオレでございます」

「ありがとう」

 テーブルに置かれたカフェオレからは湯気が立っている。


「お砂糖はこちらです」

 テーブルの端にあった白い陶器の砂糖壺を、店員が引き寄せた。その刹那、片腕を伸ばした店員のシャツの袖口から、手首より上が覗いた。


 あ。


 瞬間奇妙な形の図柄が見えた。

 縄のような、文字のような。


 刺青をしているんだな。そう思った。

 いや、刺青ふうのシールかもしれない。


 カフェオレを口に運ぶと、店員の手首の上にあった図柄のことはすぐに頭から消えた。

 代わりに、もう一人の客である長い髪の学生風の女の子が気になった。それまで静かにメールを打っていたらしい彼女が、声高に電話をしはじめたのだ。どうやら、電話の相手と諍いになっているようだ。


 若い女の子にしてはめずらしく、方言がきつい。


 いろんな土地を旅して、智也は日本全国ほとんどの場所で、方言が死滅しかかっていると思っている。特に若い世代に顕著で、外部の人間にはわかりやすくて有難いが、やっぱり旅情を感じるには、その土地土地の言葉を聞きたい。

 

 彼女の言葉はあったかい感じがして不快ではなかったが、やはり声が大きすぎた。 

 まして諍いになっている会話を聞くのは、こちらには非がないはずなのに、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感に襲われる。

 

 彼女から顔を背け、ふたたびロビーに視線を戻すと、比企野の姿は消えていた。 


「なんだ」


 カップをテーブルの上に置いて、智也は思わず呟いてしまった。

 

 どこにも行かないと言っていたのに、結局、いないじゃないか。

 いや、どこにも行かないと言ったのは、二度目に会ったときのことで、今回はそうじゃないんだろう。


 どちらにせよ、いなくなってくれたことは有難い。と思ったときーー。


 カタン。


 背後で椅子が引かれる音がした。


「ごいっしょしていいですか」

 比企野だった。


「雪がひどくなりましたよ」


 比企野の肩越しに、智也はロビーの向こうを見た。

 窓が白い。もう、その向こうの林は見えなかった。



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