つちぐも
酢豆腐
土喰物(つちぐも)
ある男性の話。
山道の途中に、
地図にも案内板にも載っていない。
俺は10年以上この山に通っていて、どのルートのどこに何があるか、大体頭に入ってるつもりでした。
なのに、そのとき、初めて見たんです、その東屋を。
登山道も中腹を越えたところ。そこから傾斜が急になるという、その少し手前。
道の右側に、草に隠れるような細い踏み跡がありました。数歩ほどたどると、小さなくぼ地になって、そのくぼ地に、東屋が建っていました。
たまたま草が倒れていたのを見て気がついたんですが、それまで、まったく目に入らなかった。10年、確かに毎年通ってるのに、一度もそこに東屋があるなんて気づかなかった。
かなり古そうでしたけど、風雨をしのぐには十分な造りに見えました。
四本柱で、屋根は、傾いてはいるけど崩れてはいない。真ん中に、切り株のような腰かけがひとつだけ置かれていて、その腰かけも薄汚れてはいたけれど、目立つ傷はなかった。
下は、板や石が敷かれているとかじゃなくて、地面が剥き出し。でも目を落としてみると、周囲に比べて草はまばらでした。
定期的に誰かが管理しているんだろうか、と思いました。
ただ、近づくと、なにか変な臭いがしました。
湿った木と土の匂い……それは山なら普通なんですが、それに混じって、なにか――生乾きの古布を押し入れから引っ張り出したような、むっとする匂いがした。
最初は気のせいかとも思ったけど。
でも腰かけに座って、足を投げ出してみたときに、はっきりしました。
地面から、風が立ち上がるようにして、その匂いが昇ってくる。
ぬるくて、埃っぽくて、微かに鉄臭いものも混じっている。
思わず足を引っ込めました。
いや、匂いのせいだけじゃなく。
地面のそこら中に、小さな穴が、いくつも開いているのが見えた。
人差し指くらいの太さで、覗き込んでみると、やっぱり指の、第2関節が埋まるくらいの深さだった。
数えてみたら、15、いや20近くあったかも知れない。
どれも同じような穴なんだ。人差し指くらいの直径も、第2関節まで突き刺したような深さも。
測ったように均一な穴が、整った間隔で散らばってる。
数秒前までは気づかなかった。ずっとあったのか、そのとき、新しく出来たのか。
いずれにしても、自然にできたものには見えなかった。
そのとき、風が葉を揺らす、カサカサと音がした。
音に混じって、一瞬、東屋の向こうに、人の横顔みたいなものが浮かんだ。
みたいなもの……そうじゃないな。人の横顔だったと思う。
性別も年齢もわからない、とりたてて特徴のない横顔が、それだけで、首も胴体もなくて、柱の向こう側に浮かんで、すぐに木の陰に消えた。
俺が来た道とは逆側の位置だ。人が通るには草も密で、踏み跡もないはずの場所だった。
横顔が見えなくなった次の瞬間、東屋全体が、わずかに浮いたように揺れた。
目で見てわかるかどうかくらいの小さな動き。でも、確かに、「押し上げられた」ような感触があった。
俺はその場を離れました。
穴を踏まないように、音を立てないように、そこにいる何かを刺激しないように、ゆっくりと。
あのとき吸い込んだ匂いが、いつまでも鼻の奥に残ってる感じがして、山を下りても、しばらく何を食べても妙な味がした。
翌月、もう一度同じルートを登ってみたんです。でも、あの東屋はどこにも見当たらなかった。
踏み跡も消えてたし、そもそも、例のくぼ地自体がなかったように見えた。斜面は一帯、草に覆われていて、手がかりもない。
あちこち草をかき分けてみても見つからなくて、息が切れて、ふと振り返ると、背後の登山道のあちこちに、小さな穴が開いていました。
例の大きさの穴です。
俺の人差し指くらいの直径。俺の指を第2関節くらいまで差し込んだ深さ。
まわりの土が崩れないように、丁寧に、慎重に、いくつも開けられた穴。
ぞっとして、周囲を見まわした。
匂いがしないか、鼻を動かした。
次に、あの横顔を探した。
それから足もとを意識して、地面を押し上げるものがないか、確かめた。
何かが自分のすぐそばまで来ているのではないか。そう思った。
でも、違いました。
道に穴を開けたのは自分でした。
あの穴を真似て、丁寧に丁寧に指を押し込んで、ひとつひとつ開けていったんです。
草むらをかき分けているうちに、すっかり忘れていたんですけどね、右の人差し指がしっかり第2関節まで、土まみれに汚れていた。それを見て、思い出しました。
穴のひとつを軽く蹴ってみたら、土が崩れた。
崩れた土は、そのまま音もなく、穴の中に吸い込まれていった。
しかし穴が埋まることもなかった。ひと回り大きくなった口をいまだ黒々と開けていて、深い空洞のようだった。
その空洞は、もしかしたらどこかに繋がっていたかも知れない。
その底に何があったのか、
今も、気になっています。
つちぐも 酢豆腐 @Su_udon_bu
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