第32話:罪人2


ユハは、死んでいる。


なのに、生きている人間のように動いている。


悲鳴を上げ逃げ出したいという衝動も、目の前の現実にどうにもならない。


「『捕えろ』と命令しただけなのに、大切な姫を襲うとは……」


恐慌状態に陥って何もできないスバルの頭上から、ユハとは違う若い男の声が降り掛かる。


「見逃せるのは前の一回だけですよ」


淡々とした言葉と共に、ユハが吹っ飛んだ。


ベッドから落ちた向こうで、グシャという音がした。あまりに生々しい音に、大きく震えあがり肩を竦ませる。


「大丈夫でしたか、戦姫――――ああ、こんなに頬が腫れてしまって……」


頬に温かな手で触れられ視界に入ってきた顔は、ユハの従者だった男の整った顔だった。


アルベルトと同じ年頃だろう、大人しそうな顔立ちの男は今の状況とは反対に爽やかにスバルへと微笑んだ。 と思うと、今度はクツクツと面白そうに笑い出す。


至近距離で覗き込まれ、笑い声を聴かされたスバルは戦慄を覚える。


今の状況は、絶対に異常でしかない。


「ああ。ああ、やっと! 戦巫女を手に入れた!!」


おかしそうに笑う男の手から離れたスバルは、ユハの落ちた方のベッド端に逃げた。


「駄目です。そちらは、穢れがある。神の眷属である貴方が近寄るモノじゃない」


男の『穢れ』という言葉に、スバルは後ろを振り返ってしまった。


だがすぐに男の方を向き直る。


スバルは、振り返ってしまったことを後悔した。


「ぅっ」


スバルは、喉へ込み上げてくるものを耐える。


言葉に言い表せないほどの酷い格好で、ユハは床に倒れていた。


「さあ、行きましょう。戦姫」


どこにとも言わずにベッドへ乗り上げた男は、スバルの腕をつかみ遠慮なしに引っ張る。


対応できなかったスバルの身体は、ベッドへと倒れた。


「何てか弱いのでしょう。すみません。加減がわからなかった。他の姫君達もそうなのでしょうか?」


感情の無いような声色で、男は訳の分からない質問をしながらスバルを抱き上げる。


横抱きに担ぎあげられ、スバルはユハだったものを大回りし、バルコニーへと足を進めていく。


あまりの衝撃から我に返ったスバルは、無我夢中で暴れるが長身ではあるが細身である男のどこに力があるのか、男の態勢が崩れる事は無い。


「いやだ! アル!!」


どこかへ連れて行かれることは確かで、脳裏に浮かんだアルベルトに助けを求めるように叫んだ。


「アル! ア…っん――――!?」


「シー。誰かに見つかってしまいます」


誰かに見つかるように叫んでいるに決まっていると、自分を抱えたまま口を塞いだ男をスバルは睨む。


男はその視線を受けて、満面の笑みを湛える。


「それにしても、他の姫を見た時も思っていたのですけれど、皆、つくりが華奢ですね。扱いが大変そうだ」


『他の姫』という言葉が引っかかりスバルが眉間を寄せると同時に、バンと大きな音で王の寝室へと繋がる扉が勢いよく開いた。


「スバル!」


アルベルトから見るとバルコニーの手摺の前に佇む男の背中しか見えないかもしれないのに、どうして自分が居るとわかったのか疑問に思う事もなく、スバルは自身の口を塞ぐ男の手を噛む。


どんなに暴れても動じなかった男も、さすがに痛かったらしく手を離した。


「アルアル! 助けて!!」


スバルはじたばたと暴れ、男の顔を何度も我武者羅に殴る。


「スバルを離せ!」


「仕方ありません。わかりました」


至近距離で聞こえたアルベルトの怒号に、男はため息をついてスバルを――――投げた。


「え?」


宙に軽々と高く飛び、スバルが目を見開いた時にはグッと下へ落ちていった。


「スバル!!」


焦ったようなアルベルトの声が響く。


空の見え方から、かなり高く飛ばされたのだと思ったスバルは、覚悟を決め目をぎゅっと瞑った。


次には空気に晒されていた身体が、温かな何かに包まれた。


「スバル。大丈夫だったか?」


ダンと大きな物音の後に、心配そうに問いかけてくる声が上から降ってきた。


スバルがゆっくりと瞼を上げると、アルベルトが覗き込んでスバルを伺い見ている。


視界の端には星空があり、ぎゅっと抱き上げなれた逞しい腕に力を篭められると、スバルは目をぱちくりとするしかない。


自分の身に、何が起きたのか状況がわからなかった。


ただ、スバルを連れ去ろうとした男に天高く投げ上げられたことは分かったが――――。


「俺は………」


周りを見渡すとそこはバルコニーで、男はスバルを投げ上げた場所でこちらを見ている。 アルベルトならば、あと一歩で捕まえることができる距離にいた。


だが、スバルを抱えているアルベルトは男を捕らえようとする気配がない。


(俺が居るから……)


スバルを奪われるのを警戒して、捕えることができないのだろう。


アルベルトの顔を見上げれば、男を射殺さんばかりに睨みつけている。


睨まれている男は、余裕の笑みでスバルを見ていた。


アルベルトの後ろから、複数の足音がする。


「ユハの従者がバルコニーに居る」と言う声が聞こえてきた。この城の兵士が駆けつけたのだ。


「戦姫。また、会いましょう」


にこやかにスバルへ手を振った男は、バルコニーの手摺を後ろ向きで飛び越えそのまま落ちていった。


この部屋は、それなりに高い位置にあったはずだとスバルは思い出す。


だが、何も音がバルコニーの下から聞こえない。


男はどうなったのか。


「私が見てきます」


聞きなれた声が背後―――アルベルトの背後から下と思うと、小さな影が手摺へと素早く走り寄り飛び越えていった。


月夜に照らされた一つに結い上げられた長い黒髪が翻る。


「―――――え?」


後ろ姿だけだったが、スバルにはそれが誰なのかわかった。 わかったから、信じられずに一拍といわず数拍、反応が遅れた。


「ち、チヨ!!」


男に攫われそうになったことなどどこかに吹き飛んで、スバルはアルベルトから飛び降りるように降りて手摺へと走り寄り、しがみ付く。


ドクドクと心臓がうるさい。先ほどの恐怖や、ユハにされたことなど比べものにならないほど恐怖を感じる。


だが、下を覗き込めない。


ミナシアの者ならばともかく、妹のチヨがバルコニーから飛び降りたのだ。


チヨがどうなったのか、バルコニーの下を見る勇気がスバルにはない。


ついに覗き込めずに、スバルはその場にへたり込んだ。


「チヨ。チヨ……」


呆然と顔で、スバルは妹を弱々しく呼ぶ。


「はい。 お兄様」


お呼びですか? とチヨがひょっこりと手摺から顔を出した。

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