第28話:夢現2
何かを打つ乾いた音と、男の笑い声。
――――……る……ごめん、な…さ……い…………。
涙で霞んだ視界に、丸みを帯びた縞模様の獣耳のたぶん体格からして男がいた。
――――こわい。どうしよう。―――せたら! ―――――れたらどうしよう!!
混乱と恐怖、そして絶望が一気にスバルを襲っていた。
「ッ!!」
スバルは、勢い良くシーツを飛ばし起き上がった。
やけに自身の息遣いがうるさい。
それとは反対に穏やかな室内は暗く、バルコニーへと続くガラス戸から柔らかな月光が差し込む。
「ゆ…め、か……」
息を整えたスバルは、ベッド脇に設けられた机の上に置かれた硝子の冠水瓶(かんすいびん)―――水差し―――の蓋をグラスにして、 水を注ぎ一気に飲み干す。
はあっと深い深いため息を吐き落ち着いたが、眠れそうにない。
淡く優しい月の光に導かれるように素足を床に着け、ガラス戸へと向かう。
キィっと小さな音を立てて開いた戸から外へ出れば、バルコニーが広々とある。
温かい風が悪戯に結わずにいたスバルの髪を遊ぶ。
「スバル……殿。温かくなってきたとはいえ、夜風は体に障る。部屋に戻った方が良い」
少し沈んだような声が、耳に髪を掛けたスバルの耳に届いた。
それを認知すると、ひゅっと息を一気に吸い込んでスバルは身体をかたくしたが一瞬の事で、"戦巫女"の微笑みを声の主に向ける。
そこには、隣室のバルコニーの手すりに手を掛けてスバルを見詰めているアルベルトがいた。
向けられている水色の瞳が悲しみに沈んでいるように見え、スバルの胸はどきりと跳ねた。
「アルベルト陛下」
それでも、アルベルトを呼ぶ声はいつものようだった。
「《ジュバン》という夜着だったか……。それは薄いだろう?」
無意識だろう。前まではズボンにシャツだったはずだ。と小さく呟いた不安顔のアルベルトに、 スバルはやはり自身は記憶喪失らしいと昼間、フィーネに教えてもらったことにふむと納得した。
徐に腕を持ち上げ自身の着ている淡い桃色の花柄を散らした寝間着を見て、またアルベルトに視線を戻す。
「これは《襦袢》でも《長襦袢》と言いまして、嫁入り道具の中に入っておりましたので……確かに、薄くはありますね」
形状は、夜伽用のものと似ている。とスバルは、前々から思っていた。
複雑そうな顔でこちらを見ているアルベルトは、それを言いたそうにしているようだ。
所変われば品変わるで、昔ローエンでは肌着や寝間着として使われていたのだが……今のローエンで毎日使っているのは戦巫女とアイリ国の花街の住人だけだろう。
「アルベルト陛下、お気遣いありがとうございます。陛下の言う通り、部屋に戻ります」
スバルは、一礼して踵を返す。
「スバル……殿」
何か求めるような声で呼び止められ、またどきりと胸が跳ねた。
「はい」
振り返った先、温かだが寂しそうなアルベルトの表情に、スバルは恐怖に似た何かが足から這い上がった。
寂しさを消したアルベルトが微笑んで「おやすみ」と、柔らかくどこか甘く告げる。
「ええ。おやすみなさい。アルベルト陛下」
スバルは挨拶を返して、今度こそ部屋に戻っていく。
部屋に入りガラス戸を閉め、ベッドへと倒れこみシーツに顔を埋め安堵の溜息を漏らす。
どうにもアルベルトと真正面から向き合っていると、何と表現したら良いかわからない恐怖が支配する。
先ほどは、一刻も早くアルベルトから逃れたかった。
所詮、遅かれ早かれ嫁ぐ予定だったスバルは、知識だけだが夜伽の教育は受けていた。
その教育には、婚儀を上げる前に乱暴な事をされる可能性があり、備えておくことと教えられている。
だからと全てそうではないが、万一を備え長襦袢を着て、夜に夫となるアルベルトが急に訪問しても、戦巫女として振る舞えるように心構えをしていた。 だが、アルベルトが紳士的だったことに良かったと心の片隅で安堵する。
――――何て、愚かなんだろう。
優しく接してくれる相手に、恐怖を抱くなど。学んだ教えにあったとはいえ、アルベルトを疑ったこと……。 なんて自分は薄っぺらい人間なのだろうとスバルは己を恥じた。
スバルは、ベッドの正しい位置まで這って、小動物が身を守るように丸くなった。
先ほど閉めたガラス戸をじっと見詰めていたが、しばらくすると眠りに落ちた。
* * *
真夜中の月明かりを取り入れいてる王の部屋。
『あなたは、誰ですか?』
怯えを宿したスバルがそう聞いてきた昼間を思い出して、アルベルトは首を左右に振り、スバルの寝室へと続く扉を見詰める。
「スバル……」
懇願するような擦れた小さな声は、空気に溶けた。
ふと自嘲する。
「情けない」
愛する者に掛かれば情けないただの男になってしまうことを『獣の王よ』『血も涙もない者よ』と噂する他国の者達へ見せてやりたい。
自暴自棄と言ったところか、アルベルトは自分の見たことのない弱さを発見した。
スバルの瞳や雰囲気から、自分に怯え恐怖しているとアルベルトは感じている。
無理もないだろう。ユハは、アルベルトの叔父。
顔は違うが、背の高さはアルベルトの方が勝るが姿、形は似ているのだ。
――――落ち込んでいても、明日は待ってはくれまい。
ふて寝だ。と決めて、ベッドに横になった。
しかし、ユハから奪還したスバルが目覚めない間、二日間ほとんど寝ずにいたのにもかかわらず、眠気は来ない。
気づけば、溜息を吐いて起き上がってベッドの縁に座っていた。
ふとガラス戸の向こうバルコニーが目に入り、そちらに向かう。
ガラス戸を開けてバルコニーへ足を踏み出せば、自然とスバルの部屋の方角へ足が進む。
明かりの灯っていない隣の部屋に、それもそうかと横を向く。
城下も城の周り以外、灯りは消え皆が寝静まっていることを表しているようだった。
これが、アルベルトが守るべき国。
人型になれない子供が多く生まれはじめ、戦巫女を迎え入れるという話になった時、一目惚れをした相手が王妃となる可能性に歓喜した。
だが、今では後悔している。
スバルの記憶が戻ったのならばと思うと、胸が痛む。
ならば、記憶が戻らなければ良いかといえば肯定はできない。アルベルトは、スバルに怖がられていることがどうしても心に引っかかった。
恐怖するスバルを王妃として側に居てもらうには、とても可哀想だ。
しかし、ローエン王国に還すという選択肢はないのだ。ミナシアの王として、民を守らなければならない。
――――どうすれば良いのか。
弱音を心で吐いて、深い溜息を漏らす。
それと同時に、スバルの部屋のガラス戸が開いた。
アルベルトには気づいていないようで、風に黒い綺麗な髪を靡かせる―――バルコニーへ出てきたのは、愛しい人。
心を悩ませている人だとしても、アルベルトの心を跳ねさせ熱くさせる。
「スバル……殿」
呼び捨てにしようとしたが、何かが阻んだように"殿"と最初あった頃のように呼んでしまった。
「温かくなってきたとはいえ、夜風は体に障る。部屋に戻った方が良い」
悩んでいたせいか、少し沈んだような声がアルベルトの口から発せられた。
耳に髪を掛けていたスバルがそれに反応し、ひゅっと音をさせ身体を硬くした。 しかし、それは夢であったかのように"戦巫女"の微笑みを貼り付けたスバルの顔がアルベルトに向けられる。
そこまでして隠さなければならないほど怖がられている事実に、心がどんよりと沈むのをアルベルトは自覚した。
「アルベルト陛下」
自分を呼ぶ冷静な声は凛としていて、自身だけが心を乱していることがどこか滑稽にも思えた。
だがそれよりも、アルベルトには不安になることがあった。
「《ジュバン》という夜着だったか……。それは薄いだろう?」
スバルが着ている寝間着は、ローエン王国やアイリ国では肌着や寝間着として使われているものだ。
「前まではズボンにシャツだったはずだ」と小さく呟いたアルベルトは、《ジュバン》だけで何も羽織らずにいるスバルのすぐ隣へ行って、自身の上着を華奢な肩に掛けたい衝動にかられた。
――――そんなことをしても、怖がられるだけだろうな……。
そして、スバルが腕を上げ見ている淡い桃色の花柄を散らしたそれは夜伽用のものに似ていて、アルベルトは複雑な気持ちにもなった。
「これは《襦袢》でも《長襦袢》と言いまして、嫁入り道具の中に入っておりましたので……確かに、薄くはありますね」
花が綻ぶように微笑むスバルから、少しだけの安堵が伝わった。
「アルベルト陛下、お気遣いありがとうございます。陛下の言う通り、部屋に戻ります」
スバルは、一礼して踵を返す。
「スバル……殿」
帰ってしまうと焦って呼んだアルベルトの声は、何かを求めているように響かせ、スバルの肩を小さく跳ねさせた。
また、怖がられた。
「はい」
返事をして振り返るスバルを見ながら、可哀想なことをした。呼び止めなければ良かったと思う。
アルベルトを見て、一回小さく振るえたスバルにいよいよ呼び止めなければ良かったと後悔した。
切なさを押し隠しアルベルトは微笑む。
「おやすみ」
短い挨拶の言葉だけは、愛する者を優しく眠りに誘えるものであって欲しい。
「ええ。おやすみなさい。アルベルト陛下」
動揺したように潤んだ瞳を少し揺らしたスバルは、部屋に帰って行く。
見守るスバルの背中は、いつもよりも弱々しく見えて心配になる。
スバルが部屋に入り扉が閉まるまで、アルベルトはその背中を見詰めていた。
* * *
「はははっ」
乾いた笑い声は、湿気た空気に浸蝕されて消えていった。
太陽や月の光があたらなく、じめじめとした鉄格子で仕切られた部屋は、ただ一つの蝋燭で申し訳程度に照らされている。
ミナシア城の地下にある牢屋。ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りを見詰め、笑うのはユハだ。
「私の可愛い可愛い小さなセシリア……。ああ。私の可愛い妻、スバル……」
そう呟くユハの様子を見に来ていた看守は、身震いをした。
看守は無言で引き換えし、複数の牢屋の置かれる部屋から出て施錠する。看守用の部屋に戻り、ほっと溜息を吐く。
いつも見慣れている部屋がこんなにもほっとする場所だったのかと、看守が思うほどユハは異質な雰囲気を纏っていた。
先ほどの光景が脳裏を過り、ぶるりと身体が震える。
「おっかねー」
声に出さなければ、恐怖というより気持ち悪さのある空気に呑まれそうでならなかった。
夜の地下はかなり暗く、むわっと水気の帯びた空気が漂い如何にも幽霊やお化けと言ったものが出てきそうだ。とここに勤めて六年ほど経つ看守は、今更ながらに思う。
「あの……」
「うわあ!」
弱々しい呼び掛けとぬっと出てきたやけに顔に、『幽霊が出た!』と看守は悲鳴を上げた。
だがすぐにその幽霊が、自身と同じ造りの服を着ていることでほっとした。
「な、なんだ。脅かすなよ」
看守は、気恥ずかしさにボンっと目の前の男に肩を叩く。
すると、その男は痩身だった為にへろへろとよろける。
「す、すみません……」
「いやあ。俺が驚いちまっただけだ。悪いな」
ぺこぺこと謝ってくる男に、看守は頭を掻いた。
男で兵士である自身が幽霊だと驚いてしまい気まずく、また見知らぬ男の顔に「新入りか?」と問いかける。
「はい。今日は、こちらで見張りをしろと言われまして……」
姿勢を正し答えた男が、先ほどの頼りない雰囲気から兵士特有のものへと変化させたことに看守は頷いた。
「そうか。だが、新入りがいきなり看守を勤めるなんて……俺がいた方が良いんじゃないか?」
「いいえ。一人で看守をするように上司に言われているので……」
「それ、虐められてねーか?」
目の前の上司が誰だかわからないが、看守は男を哀れに思った。
だがそれだけだ。今日は、早く上がれる。
薄気味悪い囚人がいるのに耐えきれそうになかった看守は、早々に目の前の男に任せることにした。
牢屋の個室の入り口と幾つかある牢屋を行き来できる廊下の先には、鍵が掛かっている。
囚人に逃げ出されたということは、看守が勤め出してから今までない。
だから、大丈夫だと大きな輪っかに幾つもの牢屋の鍵を着けてある物をその男に渡した。
互いに「お疲れ様」と挨拶を交わして、看守は帰って行った。
「私の顔を知っていたら、殺していましたよ。看守さん?」
看守の背中が扉で見えなくなるまで笑顔で手を振って見送った男は、そう呟いた。
「さて」
一瞬にしてごっそりと表情を削いだ男は、牢屋へ向かった。
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