第23話:鳥籠


バシンと空気を震わす何かの音に、誰かの苦しむ声……。


厚いマットに埋もれるように眠っていたスバルは、瞼をゆっくりと上げた。


「ここは……」


少し朦朧とする頭で、景色をぼうっと眺める。


空を斬るような音の後、バシンという音に「ぅ゛あっ!」と辛そうな悲鳴を聞いた。


起き上がって音の方を見て、瞳に映る光景がすぐには理解できなかった。


だがそれは数拍のことで、スバルは目をこれでもかと開いた。


数刻まで着ていた上等な絹の服は無残に破かれ、露出した肌はみみず脹れや一本の血が滲む傷がいくつも走っている。


抵抗できないのは、拘束具で手首を繋がれ鎖で吊るされているからだとすぐにわかった。


身体に掛かっていた布団を跳ねのけ、不安定なマットの上で急ぎ、ぼろ雑巾のようになっているアウリスと隔たる鉄格子を両手で握った。


ぎりぎりまで顔を隙間に押し付ける。


「アウリス!」


スバルの呼ぶ声に従者は鞭を振るうのを止め、アウリスは力なく少し顔を上げただけ。


「おやおや。お目覚めか。スバル」


視界を遮られて、猫なで声が降ってきて頭をねっとりと撫でた。


遮るものは誰かの脚で、膝を折り曲げるとユハの顔がスバルの顔の近くに現れた。


とっさに後退しようとしたスバルの顎を少し皺のある手が握る。


「ゃぁッ」


上げてしまった小さな悲鳴が聞こえたのか、ユハは口端を吊り上げた。


「ああ。私の小鳥。何て小さい顎なんだろう」


顎を掴む手を必死に引き離そうとしているスバルに、ユハは恍惚と残虐な色を宿した瞳を向けている。


下から這い上がる嫌悪感と危機感を自覚しながら、それでもスバルは悠然と微笑んだ。


「ユハ様。アウリスを降ろしなさい。今すぐに」


「ほう。私に命令かね?」


一瞬目を見開き、興味深げに目を細めたユハは、次には愉快そうに大笑いした。


一通り笑い終わると、猫なで声で話を切り出す。


「スバル。冗談が過ぎないか? お前の主人になるだろう私に、命令など……。ならば、逆らうならば――――見てみろ」


命令口調となった低い声を出したユハは、手で握っている顎を自身に引き寄せた。


鉄格子にスバルの顔が、痛いほどに押し付けられる。


手はそのままにユハが身体をずらせば、ぐったりとして吊るされたアウリスが見えた。


「お前が逆らうならば、アウリスの命はないと思え」


ユハの言葉にピクリと反応したアウリスは、顔を少し持ち上げ強い光を放つ瞳をスバルに向けた。


「スバル様ッ……そいつの話に…耳を傾けては……ぐッ!?」


「アウリス!!」


アウリスの振り絞る声は、従者が容赦なく鞭を振るったことで止められた。


その光景にスバルは顎を掴まれたまま、手を咄嗟にアウリスへ伸ばしていた。


気絶してしまったらしく、アウリスの身体はだらりと力を無くしている。


涙で潤む黒色の瞳に、再びにたりと口の両端を上げたユハの顔が映った。


「さあ、スバル。選択を……」


ニタリと笑うユハにスバルは、嫌悪感に苛まれながらも睨む。


「わかりました」


了承したスバルに、ユハは歯をむき出しにするほど口角を上げ、狂気じみた光を灯した目をぐぐっと大きく開く。


『良い。おもちゃができた』と言わんばかりの笑みが、スバルの背筋を冷たくする。


「では。手始めに、私の事を旦那様と呼んでごらん」


また猫なで声に戻したユハに、スバルは迷わず「旦那様」と言葉を出す。


「ああ。なんて、私の妻は可愛いんだろう。小さくてか弱い私の小鳥……」


うっとりとした顔で頬擦りしてくるユハの態度は、何か愛玩具を愛でているようにしか思えない。


いつから自分が妻になったのかと心で呟きながらスバルは、言葉は通じているのに疎通ができなそうにない今の状況に絶望を覚えていた。


ただわかるのは一つ、"今のところ"と付け加えられそうだが、自身がユハの言いなりになればアウリスが傷つけられないという事だ。


怖いに決まっている。


逃げたいに決まっている。


泣け叫び、助けを呼びたいに決まっている。


だから、戦巫女の仮面をつけていなければ、自分がどうにかなってしまいそうだ。


――――アル……。


愛しい人を心の中で呼んでしまえば、アルベルトの顔が脳裏に浮かび涙が流れそうになってしまう。


だが、それをぐっと耐えた。


目の前のユハが、喜びそうな気がしたからだ。


―――喜ばせて、たまるものか。


自身を支配しようとしている男に喜ばせるものは、己からは無意識でも与えてたまるものか。


そんな誓いをしたスバルの顎を掴んでいた手が離れ、箱を掲げる。


「では、これで遊ぼうか。スバル」


"これ"と言いながら箱の中身を見せられ、スバルは震えそうになった身体に力を入れた。


春画や見本で見せられた物と似ている道具が、ぎっしりと詰まっていたからだ。


箱の中身を凝視したまま何も反応しないスバルに、面白くなさそうな顔をしたユハは、すぐに納得したように頷く。


「スバルは、これが何に使われるかわからないのだな」


鼻の下を伸ばしたユハが、自身の襟へ手を突っ込み首に掛かっていた紐を引っ張り出した。


そうして現れた鍵を鳥籠型の牢屋の入り口を施錠している南京錠に、差し入れる。


金属音をさせ開錠された南京錠を床に落とし、箱を片手に抱えユハが牢へ入ってくる様子に、スバルは叫びたい衝動に駆られたが抑えた。


柔らかいマットが踏み入れたユハの重さに沈む。


一歩ユハが進めば、スバルは無意識に逃げるように一番遠い場所を目指す。


足が縺れるのは、柔らかすぎるマットの所為だけではないだろう。


それでも辿り着いたところで、籠の中の小鳥と同じだ。


逃げることはできない。


辿り着いた先、背に固く頑丈な格子を押し当てたとしても、何もならないとわかっていてもスバルはそうせずにはいられなかった。






* * *






執務に集中していたアルベルトの耳がピクリと小さく反応した。


「ん?」


アルベルトが顔を上げると、リクも机から顔を上げており目が合う。


「外が…うるさい?」


首を傾げ目を細めたリクに、アルベルトも鋭く目を細める。


二人同時に立ち上がり、リクが執務室の出入り口の扉の取っ手を掴む。


伺うような目を向けられアルベルトが頷くと、音を立てずに扉は開け放たれた。


騒がしい方、一直線に続く廊下の奥でアルヴィを黒装束を纏う複数人が囲んでいる姿が見えた。


ただならぬ雰囲気と、アルヴィの身体に戦った痕を発見したアルベルトは、弟の危機に音もなく走り出す。


それに気づいたアルヴィだったが、訓練の賜物か表情も態勢も変えなかったために、取り囲む黒装束達はアルベルトの脚に薙ぎ払われた。


逃れた黒装束も、後から来たリクに蹴られあっけなく沈む。


「大丈夫か? アルヴィ」


「兄上! スバル様が!!」


アルベルトに肩を軽く叩かれ、ほっとしそうになったアルヴィは、思い出したようにアルベルトに必死に縋った。


尋常ではなかった先ほどの事と焦っているアルヴィからスバルの名前が出て、アルベルトは弟を気遣う兄の顔から眉間を寄せ凄みのある表情へと変えた。


「スバルがどうした」


低音が突き刺さったアルヴィだが、本能で逃げそうな身体をその場にグッと留め口を開いた。

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