第5話

 全力で走り続けた。

 息が切れているのもわからない。足が痛むのも感じない。ただ、逃げなければ――それだけだった。


 岩場を抜け、獣道を越え、身を裂くような枝葉の間を突き進む。

竜の気配は遠ざかっていたが、それでも足を止めることはできなかった。焼け焦げた地、燃える森、消えていく仲間の姿――すべてを振り切るように。


 やがて、地形は少しずつ変わっていった。

 岩肌が少なくなり、湿った土の匂いが鼻をつく。

 木々の葉は厚く濃く、頭上を覆うように茂っていた。足元には苔が生え、湿気を帯びた空気が肌を包む。


 遠くからチリチリと川の流れる音が聞こえた。


 (ここ……どこ……?)


 視界がかすむ。

 視界の端がぼやけ、音が遠のいていく。

そこは、エルザリア王国の国境を越えた先――隣国「北の帝国」に広がる未踏の森林地帯だということをマイは知らなかった。


 ――そして、限界がきた。


 足がもつれ、意識が沈む。


 「……あ……」


 最後の力で呟いた声は、風にさらわれるように消えマイ=サツキは、濃い木陰の中で、静かに倒れ込んだ。


◇ ◇ ◇


 「……おい。……おい、聞こえるか?」


 誰かの声が、遠くから降ってきた。


 「おい、生きてるか? しっかりしろ」


 皮の手袋で頬を軽く叩かれる感触。

 まぶたが重くて、なかなか開けられない。だが、かすかに光が差し込んでくる。

 マイはゆっくりと、目を開けた。

 視界に映ったのは、短弓を背負い、獣の毛皮をまとった男の顔。日焼けした肌。瞳は鋭いが、どこか優しさを含んでいた。


 「っ……ここは……」


 「北の帝国領、スルンの森だ。お前、どうしてここに? この森に入る奴なんて滅多にいねぇ。」


 マイは答えようとするが、言葉が出てこない。身体が重すぎた。


 「無理に喋らなくていい。だがこのままじゃ、死ぬぞ。……お前さん、運がいいな。あと半日遅れてたら、喰われてたかもな」


 男はそう言って、ちらりとマイの全身を見渡した。

 服は裂け、泥と血でぐちゃぐちゃになっていた。脚には無数の引っかき傷。


 「傷は深くない。だが、熱が出てるな……こりゃ、森に運ばれてきた死体にしか見えねえ」


 ため息混じりにそう呟くと、男は膝をつき、マイをそっと抱え上げた。


 「ひとまず、俺の小屋に連れてく」


 マイはもはや、意識を保つことすらできなかった。


 その肩越しに、葉の揺れる空がかすかに見えた。どこまでも、知らない風景だった。



------------------------------------------あとがき--------------------------------------------


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