第6話「恋と祈りと、咲かなかった夜」

 一年前――。


 祈りの儀式が始まる直前、まだ幼いシデは、境内の影に立ちすくんでいた。


 儀式の列から外れたまま、言葉を失っていた。

 灯籠の火がゆらゆらと揺れ、誰かの名前を呼ぶ声が、遠くで小さく響いていた。


 ……でも、足が動かなかった。


 祈りとはなにか。

 花を咲かせるとはどういうことか。

 そしてそれが、どんな意味を持つのか――。


 何もわかっていなかった。

 ただ、「失敗してはいけない」という思いだけが胸を締めつけていた。


 


 「……ねえ、どうしてここにいるの?」


 声がして、顔を上げると――そこにいた。


 サクヤだった。


 同じ年頃の少女。白い儀式服に身を包み、肩まで伸びた髪に花の芽を留めていた。


 額にかかる前髪のすき間から、大きな瞳がまっすぐにこちらを見ていた。


 


 「……怖いの?」


 


 その言葉に、シデはただ頷いた。


 何も言えなかった。

 情けなくて、恥ずかしくて、泣きたくなっていた。


 


 でも次の瞬間――


 サクヤは迷いなく、その手を取ってくれた。


 


 「じゃあ、一緒にいこう。手をつないでいれば、怖くないよ」


 


 その手はあたたかくて、まっすぐだった。


 その時だった。

 胸の奥がきゅっとなって、言葉にならない何かが湧き上がった。


 


 それまで、誰のことも特別だと思ったことはなかった。

 でもあのとき、確かに思った。


 


 “この子のそばにいたい”――と。


 


 祈りの儀式が始まっても、手は離れなかった。


 並んで座ったときも、目を閉じたときも。

 シデは、自分の祈りをサクヤに向けて捧げた。


 


 どうか、この子に花が咲きますように。

 誰よりも早く、誰よりも美しく。


 


 それが、“恋”というものだと知るのは、ずっと後のことだった。

 


 あの夜、シデは迷いなく祈った。


 “どうか、サクヤに花が咲きますように”


 それが自分にとって、初めての祈りだった。

 誰に言われたわけでもなく、自分の意志で捧げた、最初の願いだった。


 

 けれど、儀式が終わっても、花は咲かなかった。


 サクヤの頭にも、肩にも。

 どこにも、芽が開いた形跡はなかった。


 


 それでもサクヤは、無邪気に笑って言った。


 「ありがとう、シデ。祈ってくれたの、わかるよ」

 「……でも、わたし、まだ咲けないみたい」


 


 その言葉が、いっそう胸を締めつけた。


 


 “わたしの祈りじゃ、届かなかったんだ”


 


 サクヤが咲かない理由が、自分の祈りの弱さにあるような気がして、

 それ以来、何度も何度も祈り直した。


 けれど、花は咲かなかった。


 それでも――好きだった。


 そのまっすぐさも、誰にも媚びない強さも。


 


 けれど、ある日。


 境内の庭園で、サクヤとローズが二人きりで並ぶ姿を見てしまった。


 ローズが髪に触れ、額に唇を落とそうとするその距離。

 サクヤは戸惑いながらも、拒まなかった。


 それを見た瞬間、シデの足は動かなくなった。


 


 (私は……あの場所には、立てない)


 


 その夜、シデは何も祈らなかった。


 祈ることが、自分の役割じゃないように思えて。

 祈っても、届かないのなら。


 


 それからだった。


 神殿に預けられ、言われた通りの祈りだけを繰り返すようになったのは。


 


 そして、今。


 セレスの部屋で、灯の下に座る彼女に向かって、シデはようやく本当のことを口にする。


 「私は……本当はサクヤに咲いて欲しかった」

 「……あの子のために、祈り続けた……」


 


 (なのに――あの子は咲かなかった)


 

(咲かなかったその夜から、私は祈ることすらやめた――

  それが呪いだったのかもしれない)


「……あのとき、私……ローズ様とサクヤのあの距離を見て、何もかも崩れました」


 シデの声は震え、遠くの回想へと沈んでいく。


 ――ローズと笑い合うサクヤ。

 ――陰に立ち尽くすシデ。


「ずっと、サクヤのことが好きだったのに。

 でも、私の想いでは咲かなくて……

 私にはもう何も残ってないと思った」


 沈黙のなかで、セレスは黙って話を聞いている。


「だから……もしかしたら、私……知らずに呪いを……」


 その言葉に、セレスは目を閉じ、静かに語った。


「……それは“想い”が歪んだだけだ。呪いには、まだ届いていない。

むしろ今、君がこうして語ったその言葉――

それが“呪いにならなかった”証拠だ」


セレスの言葉に、シデははっと息をのんだ。


 (……私は、呪ってなどいなかった?)


 その思考がめぐり始めたとき、部屋の隅からふいに、ぎし、と小さな物音がした。


 


 驚いた二人が振り向くと、古びた押入れの戸が、きぃ……ときしむように開いた。


 中から、うつむいたサクヤが小さく縮こまりながら這い出してくる。


 


 「……っ、サクヤ様!?」


 


 驚いた声をあげたシデに、サクヤは視線を合わせることもできず、ただ手にした小包を差し出した。


 


 「……ごめんなさい。お菓子を届けに来ただけだったの。……でも、扉の前にシデが来たのがわかって……」


 「その……怒ってると思って、出られなくなって……」


 


 「……え?」


 


 シデの顔に戸惑いが走る。


 


 「ずっと……私のこと、嫌いなんだと思ってたの」

 「シデの視線、前より冷たくなってて……でも話しかける勇気もなくて……」


 


 ぽろりと、サクヤの目から涙が落ちた。


 


 「昔みたいに、笑ってくれなくなったから……嫌われたんだと思ってた……」


 


 サクヤの声が震える。


 シデはその言葉に、目を大きく見開いた。


 


 「ち、違う……! 違うの、サクヤ!」


 「私は……ただ、勝手に一人で、苦しくなってただけで……!」


 


 シデが近づき、サクヤの肩を抱く。


 サクヤは泣きながら、絞り出すように言葉を続けた。


 


 「ずっと……仲直りしたかった。でも、もしほんとに嫌われてたらって思ったら、怖くて……!」


 


 「嫌いなわけ、ない! ずっと……ずっと、大好きだったんだよ!」


 


 二人は涙を流しながら、しっかりと抱きしめ合った。


 言葉にできなかった想いが、胸と胸のあいだでようやく溶けていく。


 


 「ごめんね、サクヤ……私……本当は……」


 「うん、もういいんだよ……全部、全部分かったから……」


その瞬間、空間にふわりと光が灯る


シデとサクヤが驚いてつぶやいた

「えっ……? なに……?」


部屋の隅、セレスの棺がきい、と静かに開く

中から淡い光に包まれた、花びらのような耳とふわふわした尻尾を持つ小動物

――神獣ユーレが姿を現した。


シデは少しの間言葉を失っていたが

「……かわ……いい……?」



「ふわふわしてる……」

と続けてサクヤが抱き寄せて言った。


セレスは肩をすくめて

「“心聞”(シンモン)の成立。証明だよ。

ユーレが「ふにゃ」と鳴き、セレスがユーレを抱き上げた。


「これで“ふたつ目”は済んだね。――残りは、あとひとつ」

セレスは優しく微笑んだ。



セレスは、しばし沈黙したあと、ふたりに向かって問いかけた。

 「……ねえ。咲いた者たちが寿命を迎えた記憶って、どうやってミヨリノキに還るのかな?」

 

サクヤとシデは、思わず顔を見合わせた。

「え……?」


「ミヨリノキに還るって、ずっと言われてきました。でも、それって“どうやって”なのかは……」


 セレスは頷いた。


 「咲いた者の記憶を補完する“場所”が、あの神殿のどこかにあるはずだよね」


 その言葉に、シデが息を呑んだ。


 


 「……ひとつ、思い当たる場所があります」


 


 彼女は声を低くして続けた。


 ──つづく。



 

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