第10話 [霧の谷の道標]


霧の谷に差しかかったのは、まだ朝靄の残る時刻だった。

空は晴れているのに、谷間だけが白く霞んでいる。


「うわ……ほんとに、真っ白」


イフミーは荷馬車の座面に膝を抱え、背を丸めて霧の向こうを眺めていた。

風にさらわれた銀髪が陽に透け、肌の褐色をより柔らかく見せていた。


「歩きづらいかもしれないけど……大丈夫そう?」


「へっちゃら。こういうの、なんとなく好きなんだ。音が吸い込まれていく感じ……」


そう言いながら、イフミーは耳に手をあてて、笑った。

尖った耳が、霧の静けさを捉えようとしていた。


「……風はどう?」


「読めるよ。西から吹いてる。間違いない」


私は小さくうなずき、馬に声をかけた。



---


谷を進む途中、倒れた道標を見つけた。

手斧で削られた木の札が、苔むした地面に半ば埋もれていた。


私は斜面を下り、それを掘り起こす。


「これ、もとに戻すの?」


「こんなものでも、あるとないとじゃ全然違うんだよ。迷う人もいるしね」


「……君、ほんと真面目だよね」


イフミーは笑っていたが、どこか嬉しそうだった。



---


その日の昼過ぎ、谷の中腹で小さな依頼を受けた。


濡れた荷を運んでいたら、車輪が泥に沈んで動かなくなった――

そう訴えてきたのは、若い旅の薬草採集者だった。


「一輪車の片輪が埋まって……荷をどかすのも一苦労で」


彼の後をついて現場に行くと、確かに斜面の途中で荷車が傾いていた。


「これ、まず車輪の下に石を……君、あっちから押してくれる?」


「任せて!」


イフミーが泥に足を取られながらも、ぐっと押し出す。

その間、私は車輪の下に板と石を滑り込ませる。


「いける……っ、せーのっ!」


ゴリ、と音を立てて、車輪が持ち上がった。

泥が飛び、靴が濡れた。


「あ、うわ、靴下まで泥んこ……」


「でも、ちゃんと助けられたよ」


「うん……ちょっと気分いいかも」



---


報酬として、銀貨一枚と銅貨三枚を受け取った。

「少なくてすまない」と青年は恐縮していたが、私たちには十分だった。


「じゃ、旅の無事を祈って」


「ありがとう。ふたりとも、本当に助かったよ」



---


谷を抜けた夕方、焚き火のそばで濡れた靴を乾かしていると、イフミーがぽつりと言った。


「……私さ、神様って呼ばれてた頃より、今のほうが“生きてる”って感じがするんだよね」


「そう……かもね。誰かに祈られるより、一緒に泥だらけになるほうが、楽しい」


「うん。なんか、心が、あったかくなる」


私はそれ以上、何も言わずに、イフミーの横顔を見つめた。

湿った髪に火の粉が舞い、頬に映るその影が、どこか人間らしく見えた。


旅はまだ続く。

けれどこの霧の谷で、ほんの少し、距離が近づいた気がした。




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