第9話 [商館と噂話と旅仕度]
峠を越えて辿り着いた村には、小さな商館がひとつ建っていた。
年季の入った木造の建物に、褪せた布看板。けれど出入りする人の足取りは軽く、品も多い。
「ふうん……案外、繁盛してるみたいだね」
イフミーがひょいと首を伸ばして、荷下ろしの男たちを眺めた。
「このあたりの街道では、物資の中継地になっているようです。峠を越えるには、装備も補給も重要ですから」
「なるほど、ここでいったん整えるんだ。……私たちも?」
「もちろん、だよ」
宿を出た私たちは、村の商館へと足を運んだ。
次の街道に向けて、食料や予備の水袋、傷薬や布といった旅用品を買いそろえる必要があった。
中へ入ると、干し肉の香りと、雑多な商品の並ぶ棚が目に入る。
袋詰めの穀物、麻のロープ、革の小袋、そして鉄製の留め具や釘までが並んでいた。
「よく揃ってるな……あ、見て。香袋、あるよ」
イフミーは目ざとく棚の一角を指差した。
そこには布と草を編み込んだ、簡素な香袋がいくつか並んでいる。
「……これと同じじゃないけど、似てるの、ある」
イフミーは自分の首元から吊るした香袋を見せた。
黒い紐で吊るされた布袋には、かすかに白と赤の刺繍が施されている。
香の成分か、それとも旅の記憶か――その表面にはわずかに、年月を経た柔らかさが滲んでいた。
「買っておく?」
「ううん。今はいい。……でも、君の分があってもいいかも」
「……じゃあ、一緒に選んで」
私は並んだ袋の中から、淡い緑の布で作られたものをひとつ手に取った。
その香りは、森の奥にある清流のように静かだった。
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会計を終え、商館を出たときには陽が西へ傾き始めていた。
まだ村を出るには早いが、夜明けとともに出発する予定だった。
夕餉までの間、私は村の井戸近くにある広場で腰を下ろした。
旅人たちが焚き火を囲み、ぽつりぽつりと噂話を交わしている。
「……聞いたかい? 西の街道沿いに、また盗賊が出たらしい」
「荷馬車を二台まるごと襲われたって話だな。しかも、護衛つきだったって」
「魔物の仕業じゃないかって声もある。道に幻を見せて、人を迷わせるってやつ」
私は耳を傾けたまま、空を見上げた。
星がひとつ、またひとつと夜空に散りはじめている。
「……ああいうの、聞くと心配になる?」
そう問いかけたのはイフミーだった。
いつの間にか、隣に座っていた。
「うん。でも、だからこそ備えておきたい。守りたいものがあるから」
イフミーはふっと笑った。
「そっか。……じゃあ、明日はちょっとだけ、強くなろう」
その言葉が、妙に頼もしく聞こえた。
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翌朝。
私たちは再び荷物をまとめ、村を後にした。
街道の先にあるのは、霧の谷と呼ばれる湿原地帯。
視界が悪く、旅人が方向を見失いやすい難所だという。
だが、イフミーは言った。
「風は嘘をつかない。ちゃんと読めば、抜けられるよ」
「……頼りにしてるよ」
「えへへ。まあ、期待しすぎないでね」
そう言って、イフミーは香袋を軽く叩いた。
旅は続く。
あの子が摘んだ花のように、ささやかでも、誰かの記憶に残るように。
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