第02話 「事態の収束」

 ゆっくりと、まるで重力など存在しないかのように地上に舞い降りる一人の女性の姿を生き残った誰もがただ呆然と見上げていた。純白のローブを纏ったその姿は唯一の救いのように神々しく輝いて見えた。


 アイリーンは瓦礫の上に静かに降り立つとふぅと小さく息を吐いた。

 瞳の色が神々しい金色から元の冷徹なスカイブルーへと戻る。凄まじい魔力行使の余韻がまだ身体の芯に痺れのように残っていた。


「……面倒で、嫌になるわね」


 誰に言うでもなく呟いたその時、瓦礫を蹴散らす軽快な足音が響いた。


「アイちゃーーん!」


 声の主は振り返るまでもない。

 アバター化によって燃えるような赤いポニーテールを揺らしながらヒナが満面の笑みで駆け寄ってくると、勢いそのままにアイリーンの背中に抱きついた。


「すごかったよ! 空のやつ一発だったじゃん! かっこよすぎ!」


「……離れなさいヒナ。暑苦しい」


 アイリーンは眉をひそめ無感動な声で突き放そうとする。だがその腕を本気で振り払うことはなかった。背中から伝わる体温が戦いの緊張で冷え切っていた身体にじんわりと熱を灯していくのを感じていた。


 そこへもう一人。落ち着いた足取りでコウメイが姿を現した。彼の黒い陣羽織は所々が埃で汚れていたがその佇まいは少しも揺らいでいない。


「お見事です、聖女様。人的被害を最小限に抑え亀裂を破壊。完璧な戦術でした」


 眼鏡の奥の紫の瞳が心からの賞賛と信頼を物語っている。


「あなたたちの働きがあってこそよ。ヒナが地上のヘイトを完璧に引きつけて、コウメイが自衛隊を機能させたから私は攻撃に集中できたわ」


 アイリーンはヒナの腕からするりと抜け出すと二人に向き直った。


「ありがとう、助かったわ」


 少し素気ないが彼女らしいの賛辞だった。


「もー、アイちゃんはもっと素直に喜びなよー!」


 ヒナが楽しそうに茶化しコウメイも口元に微かな笑みを浮かべる。

 三人の間に死線を共に乗り越えた者たちだけが共有できる確かな絆と安堵の空気が流れた。


 だがその穏やかな時間は長くは続かなかった。


 ガシャ、ガシャと複数の人間が瓦礫を踏みしめて近づいてくる。


 アイリーンたちが視線を向けるとそこには戦闘服に身を包んだ自衛官の一団がいた。先頭に立つ壮年の男はヘルメットを脱いで脇に抱え、緊張とそれ以上に強い畏敬の念が入り混じった複雑な表情でアイリーンたちを見つめていた。


「……君たちがこの事態の収拾に協力してくれた方々という認識で良いかな?」


 絞り出すような声だった。その問いにコウメイが一歩前に出て応じる。


「結果的にそうなりました。我々はギルド『聖愛教会』の者になります。この街の惨状をただ座視できず事態収拾に向け協力させていただきました」


「聖愛教会……」


 男は強烈な印象を与えたその名を反芻すると、改めて目の前の女性――アイリーンへと視線を向けた。空を覆っていたガーゴイルの群れを殲滅し、異界への扉をいとも容易く破壊した、あの圧倒的な力。それは、彼がこれまで培ってきた軍人としての常識を、根底から覆す光景だった。


 畏怖と、そしてわずかな興奮を滲ませた声で、彼は呟く。


「あれは……、もはや神の御業だ」


 彼はそう呟くと深く、深く頭を下げた。


「感謝する。君たちがいなければ我々は間違いなく全滅し渋谷は地図から消えていただろう。私はこの地域を任されている陸上自衛隊、一等陸佐の坂上だ」


 坂上と名乗った男の顔には指揮官としての苦渋と部下を失ったであろう痛みが色濃く刻まれていた。彼は目の前の人物たちが常識の枠外の存在であると理解しつつも、まずは命の恩人として最大限の敬意を払っていた。


「えへへ、どういたしまして!」


 ヒナが無邪気に笑って手を振る。アイリーンはこういうやり取りが最も面倒だとばかりに腕を組んで黙り込んでいる。


 坂上はそんな三人の様子を冷静に観察すると真摯な口調で続けた。


「よろしければ我々の駐屯地までご同行願えないだろうか。ぜひ情報共有を行いたい。身の安全はこの私が保証する」


 それは要請の形をとった拒否し難い申し出だった。

 コウメイが視線でアイリーンの意向を尋ねる。


 アイリーンは小さく頷いた。


「……面倒だけど、仕方ないわね。状況の共有はこちらにとっても必要でしょう」


 その言葉に坂上一佐は安堵の表情を浮かべた。


 彼らに先導され一行は比較的損傷の少ない通りまで移動し、そこで待機していた装甲兵員輸送車に乗り込んだ。重いハッチが閉まると外の喧騒が嘘のように遠ざかる。


 車がゆっくりと走り出すと防弾ガラスの向こうに破壊された渋谷の街が流れていく。

 ひしゃげたガードレール、黒焦げのビル、そして白い布をかけられた無数の亡骸。ヒナは息を呑み先程までの明るい表情を曇らせた。


「なんか……映画みたいだね……」


「映画ではない、現実だ」コウメイが静かに訂正する。「そしてこれはおそらく序章に過ぎない。世界は変わってしまったんだ」


「……そうね」


 アイリーンが窓の外から視線を外し呟いた。


「次の『面倒ごと』が始まる前に少しでも情報を集めておかないと。利用できるものは全て利用する」


 そのスカイブルーの瞳は既に次の『盤面』を見据えていた。


 練馬駐屯地に到着するとそこは野戦病院さながらの光景が広がっていた。負傷した隊員たちが次々と運び込まれ怒号と呻き声が飛び交っている。この国の平和がいかに脆いガラス細工の上にあったのかを誰もが痛感させられていた。


 アイリーンたちはそんな喧騒を抜けて司令部の庁舎へと案内された。


 通されたのは重厚な調度品が並ぶ応接室だった。革張りのソファに腰を下ろして間もなくドアが開き、坂上一佐と共により階級の高い軍服を纏った男が入ってくる。肩の階級章は彼が将官であることを示していた。


「聖愛教会の皆様、よく来てくれた。私がここの司令、東(あずま)陸将補だ」


 東と名乗った男は柔和な笑みを浮かべていた。だがその目は一切笑っていない。

 品定めをするような鋭い光がアイリーンたち三人を順番に射抜いていく。


「まずは渋谷での英雄的行動に国家を代表して心から感謝を申し上げる」


 型通りの感謝を述べた後、東はソファに深く腰掛け本題に入った。

 その口調は穏やかさを装いながらも有無を言わせぬ圧力を伴っていた。


「さて、早速本題に入らせてもらおうか。『セカンドライフオンライン』のギルド、『聖愛教会』。そのリーダーは圧倒的なカリスマと戦闘力で知られる聖女アイリーン。そして彼女を支える二人の腹心。……違ったかな?」


 東は穏やかな口調でしかし確信を持って言った。


「我々の情報をよくお調べで。ええ、その通りです」


 コウメイは表情を変えずに応じた。相手が自分たちの素性を知っていることに驚きはない。ネットで調べれば誰でも手に入る情報だ。だがこの男がそれを交渉の冒頭で口にした意図を探っていた。


「今の時代情報は重要な資源だ。特に君たちのような未知の存在に少しでも備えるために情報収集に力を入れるのは必然のことだろう」


 東は楽しげに目を細めた。


「君の運営する攻略サイトは実に論理的で興味深かった。そして聖女様の動画チャンネルも興味深く拝見させてもらったよ。その冷静な分析力と勝利への執着心。実に素晴らしい。だがその分、あなたは『面倒ごと』を極端に嫌う傾向にあるようだ」


「私の配信までチェックしているとはご苦労なことね。それで、その情報を使って私たちをどうしたいのかしら?回りくどい探り合いは時間の無駄よ」


 アイリーンは、東の言葉を遮るように、冷たく言い放った。そのスカイブルーの瞳は、相手の腹の底まで見透かそうとするかのように、鋭く細められている。


「にわかには信じがたい話だが、現に君たちはそのゲームの力で一個師団でも達成不可な戦果を実質3人で挙げてみせた。その事実は認めよう」


 彼は一度言葉を切ると本性を覗かせた。


「その力、非常に強力だ。だが、見方を変えれば極めて危険な代物でもある。君たち自身、その力の使い方も今後の社会でどう生きていくべきかもまだ手探りの状態だろう? そういう『面倒ごと』は我々プロに任せるのが得策だとは思わないかね?」


 東陸将補はそこで一度言葉を切り三人の顔をゆっくりと見回した。


 ヒナはゴクリと喉を鳴らしコウメイは眼鏡の位置を直して警戒を強める。アイリーンだけが変わらぬ冷めた瞳で彼を見返していた。


「一歩間違えれば国を容易に滅ぼしかねない、まさに両刃の剣だ。そうは思わないかね?」


「……それは我々の力を脅威と見なしている、と?」


 コウメイが探るように問いを返す。


「いや、逆だよ」


 東は笑みを深めた。


「だからこそ我々国家がその力を『保護』し君たちが安心して暮らせる環境を整える必要があると言っている」


「……どういう、意味ですか?」


 ヒナが戸惑いの声を上げる。東はまるで見込みのある若者を諭すようにゆっくりと続けた。


「君たちの力を我々に預けてはもらえないだろうか。自衛隊の特別部隊として迎え入れその能力を国家のために役立ててほしい。もちろん君たちには英雄として相応の待遇と地位を約束しよう。身元の保証はもちろん、ご家族の安全な場所への優先的な避難、そして今後の生活の全面的なバックアップ。望むなら君たちのような『新人類』のための特別な法を整備することすら政府に働きかけよう」


 それは単なる勧誘ではなかった。弱みと欲求を的確に突き抗いがたいメリットを提示する巧妙な懐柔策だった。


 コウメイは表情を変えずに沈黙している。ヒナは不安げにアイリーンとコウメイの顔を交互に見た。


 応接室の空気が張り詰める中、それまで黙って話を聞いていたアイリーンが静かに口を開いた。


「お断りします」


 凛とした一切の揺らぎもない声だった。


 そのあまりにきっぱりとした拒絶にしかし東陸将補は動じない。むしろ面白い玩具を見つけた子供のように楽しげに口の端を吊り上げた。


「ほう……理由を聞かせてもらおうか」


「あなたの言う『国家』や『国民』が具体的に誰を指すのか私には分かりません。ですが私たちの力は私たちの意思で使います。誰かの都合のいい道具になるつもりは毛頭ありませんので」


 アイリーンは冷徹なスカイブルーの瞳で東陸将補を真っ直ぐに見据えた。『国家への奉仕』聞こえはいいが、要するに彼の、あるいは彼の上にいる誰かの駒になれという話だ。自由を尊ぶ聖愛教会にとってそれはギルドの死を意味する。日本を守る意志がないわけではない。だが、それは誰かに強いられてやるものではない。


「それに……その腹の内を探り合うようなやり取りも、私たちを値踏みするその視線も不愉快極まりないわ」


 最後の一言は絶対的な強者だけが放てる純粋な侮蔑だった。


 部屋の温度が数度下がったかのように空気が凍り付く。坂上一佐が息を呑む気配がした。


 すかさずコウメイが完璧なタイミングでフォローに入る。


「聖女様の言葉を補足させていただきますと我々『聖愛教会』はいかなる組織の傘下にも入るつもりはありません。ですがそれは国家や自衛隊に対して協力しないという意味ではありません。有事の際には対等な協力関係を築けるものと確信しております」


 硬軟織り交ぜたコウメイの言葉に東陸将補は満足げに頷いた。


「いいだろう。交渉は一度で終わらせるつもりはない。君たちもその力がこの世界でどれほどの価値と……そしてどれほどの『厄介事』を招くか、これから身をもって知ることになるだろう。我々の提案がいつか君たちにとって唯一の救いになるかもしれない。その時が来たらまた声をかけてくれたまえ」


 その言葉は対話の打ち切りを意味していた。

 東陸将補はそれだけ告げると坂上一佐に目配せを残し、悠然と応接室を後にした。


 重い扉が閉まると部屋には張り詰めた沈黙が残される。


 やがて坂上一佐の案内に従い一行は賓客用の部屋へと通された。


 ようやく一息つける空間でヒナがソファにどさりと身を沈め、大きなため息と共につぶやいた。


「なんか、すっごい怖い人だったね……」


「まあ、相手は将官ですからね。ああいう手合いは我々のような制御できない力を最も嫌うのが常です。今日の会談は交渉じゃなく牽制と見るべきでしょう」


 コウメイの分析話を聞きながらアイリーンは窓の外に広がる駐屯地の夜景を見つめていた。無数のライトがまだ終わらない混乱を照らし出している。


「国家、ね。一番面倒な相手を引き当てたものだわ」


 彼女は小さく吐息を漏らした。

 モンスターの襲撃に唐突な能力の覚醒。それだけでも十分に厄介な事態だったというのに、盤上には最も面倒な駒が追加されてしまった。

 憎悪や本能で動く獣とは違う。利権と大義を振りかざしこちらの内側まで支配しようとする人間という名の厄介な存在が。


 彼女の視界にはモンスターとの物理的な戦闘とは比較にならないほど複雑で、厄介で、そして何よりも――面倒な『盤面』が静かに広がり始めていた。

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