第2話 スローライフの始まり、そして運命の出会い

ダンジョンが完成してから数日後。悠は隠れ家でゴブリンから奪ったリンゴを齧っていた。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。こんな質素な食事も、転生前のコンビニ飯よりは遥かにマシだ。その時、ダンジョンの入り口付近から微かな話し声が聞こえてきた。ダンジョンマスターの能力で耳を澄ませると、若い男たちの興奮した声が直接脳内に響く。

「おい、マジかよ! 新しい洞窟が見つかったって!?」「しかも、まだ誰もまともに奥まで行ってねぇらしいぞ! こりゃ、俺たち初心者でも一攫千金あるんじゃね!?」

どうやら、初めての「お客様」が来たらしい。悠はニヤリと口角を上げた。

隠れ家から、悠は探索者たちの様子を慎重に観察する。ダンジョンの入り口から足を踏み入れたのは、まだ経験の浅そうな冒険者見習いの若者たちだった。彼らが持つ松明から「パチパチ」と油の燃える音が聞こえ、その独特の油臭さが洞窟の土の匂いに混じり合う。遠くでは「ポタ、ポタ……」と静かに水滴が落ちる音。しかし、彼らの顔には期待と同時に、未知の空間への緊張が張り詰めていた。微かに鼻を掠めるのは、魔物の気配と、若者たちの生っぽい汗の匂い。その張り詰めた空気が、悠の五感を刺激する。

「ふむ、見るからにひよっこどもだな」

悠は内心でツッコミを入れる。彼らの剣の振りはまだぎこちなく、足運びも無駄が多い。最初のスライムを倒すのにも一苦労している様子を見て、「これじゃあ、俺のスローライフを潤すには程遠いな」とがっかりした。彼らが必死の思いで手に入れたのは、わずかな魔物素材と、粗末な短剣だけだ。

「まあ、最初だし、景気付けといこうか」

悠は、探索者たちが見つけた一つの宝箱に目をつけた。彼らが期待に胸を膨らませて宝箱に近づき、鍵をこじ開けようとする。その瞬間、悠は能力を発動し、中身を「カチャリ」と音を立てて空っぽにし、代わりに無造作に転がっていた石ころをいくつか入れておいた。

「よっしゃ、開いたぞ! 何が入ってるかな……って、え? 石ころ!?」 「マジかよ! ふざけんな!」

探索者たちの落胆の声がダンジョンに響き渡る。その様子を、悠は隠れ家から密かに観察し、満足げに「フフフ……」と笑みを浮かべた。

悠は徐々にダンジョン操作に慣れていった。彼らの動きを先読みし、より巧妙な罠や魔物の配置を考案する。探索者が必死にモンスターを倒してドロップした素材が、キラリと光って地面に転がる。悠は影から魔法でそれを「シュルルル……」と手元に引き寄せたり、彼らが油断して休憩している隙に、バックパックの奥から食料やポーションだけを「スッ」と抜き取ったりする。

そうやって手に入れた「戦利品」は、悠の隠れ家を少しずつ豪華に変えていった。異世界の珍しい香辛料で、探索者が残した肉や野菜を煮込み、これまでの人生で味わったことのないような美味に舌鼓を打つ。美しい発光する繊維で織られた布を部屋に飾れば、殺風景だった隠れ家が、どこか落ち着いた書斎のようになった。時には、硬質な魔物の甲羅を加工して頑丈な調理器具を作り、快適さを追求する。久留米での生活では考えられなかった、自給自足の贅沢がそこにはあった。

盗み出した書物や、探索者たちが持ち込んだ新聞なども悠の貴重な情報源だった。そこからは、この世界の文化や歴史、人々の生活習慣が鮮明に浮かび上がってくる。都市によって異なる独特の建築様式や、魔物によって人々がどれだけ苦しめられているか、その具体的な被害の様子も、活字や探索者の会話から読み取れた。人々が日常で使う奇妙な形の機械――例えば、風の力で動く運搬機や、魔法の力を利用した照明具など――が、彼らの生活にどのような影響を与えているのか。便利さの裏にある依存性や、時に不便な側面まで、悠は客観的に読み解いていく。彼のスローライフは、単なる隠遁生活ではなく、異世界の人々の営みを傍観する、ある種の観察者のようでもあった。

ある日の午後、悠が隠れ家で盗んだ書物を読み耽っていると、ダンジョンの入り口付近から、これまでとは違う気配が流れ込んできた。それは、松明の油臭さでも、汗臭い男たちの匂いでもない、もっと澄んだ、甘やかな香りだった。悠が能力で探知すると、そこにいたのは、武器を持たない一人のエルフの少女だった。彼女は、森の中で薬草を探しているうちに道に迷い、偶然にも悠のダンジョンに足を踏み入れてしまったらしい。

彼女の名前はリリア。長い金色の髪が背中に流れ落ち、透き通るような白い肌が、洞窟の淡い光の中で際立っていた。その手には、珍しい薬草の他に、見たこともない可憐な野花が摘まれた籠を携えている。その花の微かな甘い香りが、洞窟の土の匂いに混じり合い、悠の鼻腔をくすぐった。

「……獲物、ではないな」

悠は戸惑った。これまでの探索者たちとは明らかに違う。彼女からは、冒険者特有のギラついた欲や、魔物への警戒心が見て取れない。ただ、困惑したような、不安げな表情で周囲を見回している。悠は、彼女を「お客様」として扱うことに一瞬ためらいを感じた。

リリアが、悠が配置した一体のゴブリンに遭遇し、悲鳴を上げた瞬間、悠の身体は無意識に動いていた。彼女が剣を抜くこともなく、ただ震えている姿に、悠の心は妙なざわつきを感じる。まるで、か弱い小動物が捕食者に怯えているような。

「まったく、仕方ないな……」

悠は半ば意地悪心も込めて、しかし確実に彼女を助けるために能力を発動する。リリアの足元の岩が「ガタリ!」と音を立てて隆起し、ゴブリンとの間に壁を作り出す。「グガァ!?」と唸るゴブリンは壁に阻まれ、リリアは命拾いをする。さらに悠は、彼女の背後に隠れるための小さな通路を「ズズズ……」と静かに作り出し、ゴブリンが近づけないように足止めを続けた。リリアは、何者かの「助け」を感じながらも、その正体を知ることはない。ただ、漠然とした温かい気配を感じているようだった。

リリアは通路を伝って奥へ進み、やがて悠が彼女のためにこっそり配置しておいた、希少な薬草を偶然見つけた。それは、このダンジョン特有の魔力を帯びた、美しい紫色の薬草だった。リリアは目を輝かせ、大切そうにそれを籠に収める。悠は、彼女がダンジョンから無事に脱出する直前、かつて探索者から「横取り」した宝箱の中から抜き取った、小さな宝石をそっと彼女の籠に忍ばせておいた。

数日後、遠くの街でリリアが「ダンジョンの精霊様のおかげだわ!」と無邪気に喜んでいる姿を能力で知った時、悠の心は微かに揺れ動いた。彼女の純粋な感謝の念、そして宝石を見つけて「キラキラ」と目を輝かせる素朴な笑顔。それは、これまで悠が手に入れてきたどんな高価なアイテムよりも、彼の心を温かく満たした。これまでの探索者とは違う、個性的で、記憶に残るキャラクターとしてのリリアの存在が、悠の心に芽生え始めた瞬間だった。


スローライフを満喫する日々は、悠にとって最高の安寧だった。転生前の疲弊しきった心が、まるで春の陽光を浴びるように、ゆっくりと癒されていくのを感じる。しかし、一方で、悠の心には「このままでいいのか?」という、漠然とした自問自答も生まれ始めていた。

ふと、ダンジョンのどこかから響く探索者の「うわああああ!」という悲鳴や、「くそっ、囲まれた!」という切羽詰まった叫び声が聞こえる。悠は、能力を使って彼らの様子を覗き見る。多勢に無勢で、必死に剣を振るう探索者たちの姿に、悠はかつての自分を重ねた。ノルマという見えない魔物に追い詰められ、疲れ果てていた日々。彼らが追い詰められている様子を見ていると、時折、微かな罪悪感や、奇妙な共感が湧き上がってくる。

そんな中、盗聴した探索者たちの会話から、とある街が大規模な魔物の襲撃を受け、復旧作業が滞っていることを知る。その街では、独特の魔力結晶を組み込んだ建築技術が使われていたが、資材が不足し、復興が進まないという。都市によって異なるその建築様式は、悠が盗んだ文献で読んだ知識と一致していた。人々が普段どのような機械を使い、それが彼らの生活にどう影響しているのか、街の住民が魔物によってどれだけ苦しめられているか、その具体的な被害の様子が、彼らの会話から生々しく伝わってくる。

悠は、自分のダンジョンマスターとしての能力を、ただスローライフのためだけでなく、何か別のことに使えるのではないかと、漠然とした思いを抱き始める。戦闘後、探索者たちが「この魔物、以前とは違う動きをしたな」「もしかして、奥にはもっと厄介な奴がいるのか?」といった会話をしているのを聞くにつけ、悠のダンジョンが進化し、深部により強大な存在が潜んでいることを、彼は意識せざるを得なかった。彼の心は、安寧の先に、新たな目標を求めているようだった。


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