ダンジョンマスター、ゆるりと隠居生活はじめました。~転生先で最高の楽園を創ります。ただし、恋愛は想定外でした~

すぎやま よういち

第1話 転生とダンジョンの創造

蒸し暑い久留米の夜、朝倉悠はいつものように最終電車に揺られていた。革張りのシートは汗でべたつき、車窓に映る自分の顔は、目の下の隈が深く、まるで十歳は老け込んだようだ。30代にしてこの疲弊ぶりは我ながら酷い、と悠は乾いた笑みをこぼす。大手住宅設備メーカーの営業として、朝から晩まで顧客と会社の間で板挟みになり、終わりの見えないノルマに日々心をすり減らしていた。

彼の鞄には、会社規定で許された休憩時間に読むための、ぼろぼろになった文庫本がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。あかほりさとるや神坂一のライトノベルの軽妙なセリフ回しやテンポの良い掛け合いに、現実を忘れて没頭する瞬間だけが、悠にとって唯一の安寧だった。村上春樹の詩的で独特な比喩表現や、意識的に反復される言葉の波に身を任せている間だけは、この息苦しい現実から解放された心地がした。

「はぁ……」

アパートの鍵を開け、淀んだ室内の空気を吸い込む。シャワーを浴びる気力もなく、倒れ込むようにベッドに沈んだ。瞼の裏に焼き付いたのは、今日一日分のプレゼン資料と、怒鳴り散らす上司の顔。脳が麻痺したように重く、意識が途切れそうになる。その時だ。

どこからともなく、優しい、しかし確かな声が響いてきた。「安寧……楽園……創造……」。耳元で囁かれるような、それでいて魂の奥底に直接語りかけるような響き。身体がフワリと浮き上がるような感覚に襲われ、まばゆい光が悠の全てを包み込んだ。それは、深い湖の底から水面に引き上げられるような、あるいは、泥濘に沈んでいた心が浄化されていくような、不思議な浮遊感だった。


次に目覚めた時、悠は愕然とした。瞼を開くと、目の前には薄緑色の光を放つ無数のキノコが林立し、岩肌には見たこともない発光する苔が張り付いている。どこか幻想的で、しかし現実離れした光景。鼻腔をくすぐるのは、ひんやりとした土と、微かに甘い鉱物の匂い。遠くで「ポタ、ポタ……」と規則的に水滴が落ちる音が響き、どこか地下水脈の存在を思わせる。

「ここは……どこだ?」

混乱する悠の脳裏に、突如として夥しい情報が流れ込んできた。それは、この世界の構造、魔物の種類、魔法の法則、そして――自分自身が「ダンジョンマスター」としての能力を得た、という事実。地形を操り、魔物を生み出し、罠を仕掛け、ダンジョンを思うがままに創造する力。

「ダンジョンマスター……だと?」

最初は信じられなかった。しかし、その力を使ってみようと意識を集中すると、足元の岩が「ゴゴゴ……」と鈍い音を立てて隆起し、壁に亀裂が「ビキビキッ!」と走る。目の前の光るキノコが、意志に呼応するかのように「フワリ」と淡い光を放ち、悠の心を穏やかに包み込んだ。

転生前の過酷な日常から、この異世界での圧倒的な自由への移行。悠の心に、抑えきれない歓喜が湧き上がる。

「よし……決めた。もう誰の指図も受けない。ここで、俺だけの楽園を創ってやる。最高の、スローライフを!」

悠はまず、身を落ち着ける場所を探した。洞窟の奥深く、比較的安定した岩盤を見つけると、能力を使って土壁を「ヌルリ」と動かし、外界から隔絶された隠れ家を作り出す。寝床となる窪みを作り、手持ちの荷物を置くスペース、そして将来盗み出すであろう「戦利品」を保管する場所まで、シンプルながらも機能的に配置していく。

「さて、と……まずは魔物でも生成してみるか」

悠は、脳裏に浮かんだ「ゴブリン」のイメージを具現化しようと試みる。しかし、最初はまるで粘土細工のようで、足元に生まれたのは「ブチュッ」と潰れたような、何とも不恰好な塊だった。

「うわ、なにこれ。失敗作にも程があるだろ……」

イメージと現実のギャップに苦笑しつつも、悠はめげずに試行錯誤を繰り返す。次第に、土壁は意思に呼応するように「ズルリ、ズルリ」と滑らかに動き、落とし穴は「ガタリ」と音を立てて完璧な深さに開くようになった。そして、シンプルなゴブリンやスライムも、「ボヨン!」という擬音と共に、ちゃんと動く形となって現れるようになった。

ダンジョンの入り口は、外から見ればごく普通の、何の変哲もない洞窟に見えるように調整した。誰もが気軽に足を踏み入れられるように、しかし、その内部は悠が意図するままに姿を変える、複雑な迷宮となる。

ダンジョン内の空気は、常に心地よい適温に保たれていた。鼻孔をくすぐる微かな土の匂い、そして地下水脈から絶え間なく「コポコポ」と滴る水の音が、久留米での喧騒に疲弊しきっていた悠の心を、深く穏やかにしていく。

「ああ、この安寧こそが、俺がずっと求めていたものだ……」

悠は、心ゆくまでその静寂と自由を噛み締めるように、深々と息を吐き出した。


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