第2話
女官が出迎えてくれ、巨大な城を案内してくれる。
城仕えをしたことがない彼は、どこもかしこも巨大で美しく荘厳な許昌の宮殿に圧倒され、思わず口を開けたまま見上げてしまった。
「すぐにお越しです」
随分曲がったり上がったりしながら通された部屋で、女官とは別れた。
色んな椅子があるがここも立派な部屋で、さほどの身なりでない旅支度姿の自分が座ると汚しかねないと思い、彼はそこに立ったままになった。
やがて足音が聞こえて来た。
「来たか。……なんだおまえその格好は……」
「兄上。お呼びいただき、ありがとうございます。
こんな出で立ちで申し訳ありません。実は
一瞬呆れたような半眼になった司馬懿だが、それを聞いて小さく息をついた。
「そうだったか。それはすまんな」
「いえ! とんでもありません。兄上に呼ばれれば、何を後回しにしても」
他の兄弟など、司馬懿に物を命じられるとまず嫌そうな顔をするというのに、司馬家で一番温和なこの弟は、頬を少し上気させながら嬉しそうに頷いた。
「そうか。
「はい。何なりと。……ですが兄上、私はまだ修錬中の身ですが、殿下の側で働かれる兄上のお力になれるでしょうか。そのような大切な仕事でしたら、恐らく他の兄弟の方がまだ私より……」
「洛陽でするはずだった勉強は、ここでやっていい。
いい指南役は用意する」
「えっ」
「大層な仕事ではない。人の面倒を見て欲しいのだ。
お前を呼び寄せたのは、お前が我が兄弟の中で一番人柄が温和だからだ。
司馬家の名はこの
殿下の庇護をいいことに、司馬家が政を牛耳ろうとしているのではないかなどとな」
「な、なるほど……。いえ、なるほどという言い方も無いですが」
司馬家の兄弟達は秀才揃いだ。
だが賢い分、個々の矜持も高く野心もある。
群れるのを嫌っているので、それぞれがほどよく各方々で活躍しているが兄弟仲はあまり良くない。
ただし本家にいる厳格な父親の号令があれば、どこにいようとすぐに本家に戻らねばなくなっている。
しかしその中で、不意に
あの父が「私の言うことを聞いてわざわざ帰郷しなくていい」などと言ったのは司馬懿に対してだけで、それだけでも司馬孚はこの兄を尊敬しているのである。
今日も司馬懿から急遽、許昌に来いという文が来て、普段は
父親も「仲達が呼ぶならば」と許可してくれた。
確かに自分には、兄達ほどの英気を含んだ野心はない。
よく学び、立派な人間になりたいとは思うがそのくらいのことだ。
実はそれで言うと、司馬懿はどちらかというと若い頃から、彼もまた司馬一族としては突出して出世欲がなく、賢いというのに前に出たがらず、決して引っ込み思案などではなく一歩下がった所から周囲の人間達の様子をじっと観察するような、子供らしからぬ所があった。
それでも兄弟の中で一番秀才で賢く、司馬孚にとってこの兄は、昔からこうして気安く近寄れるような相手ではなかった。
実のところ、こうして二人きりで話すこともほとんど河内で共に暮らしていたことは無かったのだ。
昔から兄弟というよりは立派な親戚の人のような感じで、普通に兄弟のようにじゃれて遊んだ記憶は全くない。
それでも
そんな関係でもやはりどこか、他人のような気がしないのだ。
実の兄弟に向かって「他人のような気がしない」というのも変な表現だが、それくらい司馬一族の家族関係は変わった感覚をしているのである。
少なくとも司馬孚はあまり政と関わろうとせず、ただ静かに勉学に勤しむこの兄に、一番密かに親しみを感じて来た。
司馬孚もようやく二十歳を過ぎ家を出ることを許され、
他の街で学びながら暮らしていたが、
司馬孚が家を出ると時々、何をしているのかすらよく分からなかった兄が「今近くにいるから出て来い」などと言って食事をしてくれたりすることがあって、
初めて声を掛けられた時は何かの間違いかと思ったが、相変わらずこの兄は淡々とした様子で、身なりもさして変わっていない姿で、
しかし必ず立派な場所で食事をさせてくれ、そういう時も自分のことを話すではなく、司馬孚の近況のことを聞いた。
悪い酒を飲むことも無く、頃合いでしっかりと店を出て、自分のことは人を使って宿舎まで送らせながら、自分は供もつけずふらりと帰って行くのだ。
自分に似ていると思ってもこの兄と自分の才覚は天と地の差だと、司馬孚は自覚がある。
「分かりました。兄上。兄上の邪魔にならぬよう、ここでは出しゃばらず下手に人に憎まれないよう注意いたします」
「司馬家の人間が人に疑われるのは実際の行動というより、滲み出る空気のものだ。
お前には唯一、それがない。
疑われる必要の無い者が変に自分を戒めて、疑われたらどうしようなどと考えていると、頭が馬鹿になるぞ
「あっ……は、はい。分かりました。そのようにします」
静かにしているぞ、などと心で意気込んだところにそう言われ、
「それで……、あの……兄上……ここで私は何をしたらよろしいのでしょうか……」
自分に出来るような仕事なのだろうかと不安が過る。
奥の部屋に行くようだ。
司馬孚は荷物をそこに置いたまま、兄の後を付いて行った。
そこは少し陽射しが遮られるように作られた寝室で、夏の暑さの中でも入った途端にひんやりした。
静かな水の音がする。
部屋の中にも水場があり、小さな睡蓮の花が浮かんでいる。
司馬懿が天蓋付きの大きな寝台に、歩み寄る。
一礼して覗き込んみ、司馬孚は思わず息を飲んだ。
夏の暑い時期というのに毛布に深く包まって、一人の女性が眠っていたのだ。
この兄に案内された寝台で、まさか女性を紹介されるとは思っていなかったので、司馬孚は驚いたが、その人を一目見て浮かんだ感情はあった。
(美しいひとだな)
まるで子供のような感想を持って、自分に慌てる。
何を言っているんだ。兄の寝室で眠っている女性に対して。
でも誰だろう。
司馬孚は、頭が真っ白になった。
こうして兄が自分を呼び寄せるなど、普通のことではない。
「
思わず兄を振り返って、この美しい人が男なのだと気付き二重に驚く。
深く目を閉じて眠ってる顔は女性かと思うほど整っていた。
肌も白く、伏せた睫毛は影を落とすほど長い。
「ここしばらく、体調を崩して休んでいる。
女官に世話をさせていたのだが、ここの人間に世話をされるのをひどく嫌っているのだ。
お前はここの人間ではないし、私の身内ゆえ構わないだろう」
「りく……はくげん、どの……あの……この方の世話を、私がすれば良いのでしょうか?」
「そうだ。身の回りのことを世話してやってくれ。
お前からはその素性について一切追及するな。いいな。
こいつが話したことだけ、聞けばいい。
ここにいる間は話し相手になってやれ」
「は、はい。かしこまりました」
司馬懿の指示だけでも、彼が曰く付きの人物であることは悟ることが出来た。
兄は今、曹魏の中枢にいる。
色んな人間が周囲にはいるだろう。
「こいつは
「わっ!」
いつの間にか、兄の後ろに見知らぬ男がいた。
現在二十三歳である
「私が飼っている
「間者……」
「何かあればこいつに言え。何でも用意させる。
だが
深く目を閉じ、寝入っている青年を思わず振り返ってから、膝をついて控えている飄義の方を見る。
彼はそのことも承知しているようだ。
「よく、わかりました。私は司馬孚です。
一礼し飄義がすぐに、その場から立ち去った。
「私はこれから、殿下に会わねばならん。
早速任せるがいいか」
「は、はい」
「お前の部屋はここの向かいに用意させている。
衣なども新しいものが全てある。好きに過ごせ」
「ありがとうございます。お帰りはいつ頃になるでしょう?」
「今日は
数日、ここには戻らんだろう」
――曹孟徳。
だが
もう本当にこの人は、自分の手の届かない場所で任を果たす人になったのだ。
その日初めて司馬孚はそう実感した。
「兄上。……いえ、……
司馬懿がわざわざそう、言い直した弟を見る。
「この方は……貴方の、大切な方と思ってお仕えしてよいのでしょうか?」
腕を組んで袖に隠していた司馬懿の手が動き、眠る陸遜の目許に掛かる髪をそっと少し避ける仕草をした。
「ああ。」
短く答え、司馬懿はすぐに身を翻し、部屋を去っていった。
張りつめた空気が、和らぐ。
聞こえていなかった水の音が、ゆっくりとまた聞こえ始めた。
胸を押さえて、深く彼は息を零した。
側の台に薬湯がある。
蓋を開けて少し匂いを嗅ぐと、すぐに熱冷ましの薬だと分かった。
熱があるのだ。
今は深く寝入って、目覚める気配もない。
司馬孚は静かに、捲られてあった天蓋の布を下ろして離れた。
兄が誰かを大切だと言うのを初めて聞いた。
きっと大変な才覚を持った人なのだ。
彼はそう思う。
隣の部屋に行って、まだどこか呆然としたまま椅子に腰かけた。
眠る
目元に触れる、長い睫毛。
あの人の瞳は、どんな色をしているんだろう。
ふとそんな風に思うと妙にドキドキしてしまった。
心が鎮まらないのでそこから外の回廊へ出てみると、眼下の宮殿広場で近衛軍だろうか、毅然と整列して隊列を作っているのが見える。
この高くから地上を見下ろす場所も、張り詰めた宮殿の空気も、広すぎる青い空も、彼には見慣れなく、全く馴染めない。
ただ今は初めて手を貸してくれと、尊敬する兄に言われた任務を立派に努めたいという気持ちだけが胸にある。
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