花天月地【第14話 失われたもの】

七海ポルカ

第1話



 星は夜、空を照らし、


 朝には地に潜り、闇の底を照らす……。




 天蓋から降りる薄布を透けて、うっすらと光が射し込んでいた。


 ゆっくりと寝台に手を付き、身を起こす。

 右の肩に痛みが走った。

 思わず押さえれば、きちんと包帯が巻かれて手当がしてある。

 痛みの他には起き上がると、微かな眩暈を感じた。

 だが凌ぐように額を手の甲で押さえ、目を閉じてしばらくそうしていると、次にそっと目を開いた時には眩暈は無くなって来た。

 自分は随分熱に浮かされていたような気がする。

 目覚めるたびに気怠さを感じたが、今日はそれが全くない。


 毛布から抜け出ようと思ったら自分が裸であることに気付く。


 寝台の側に衣があった。

 薄い水色に銀糸で模様を丁寧に縫われた、質のいい衣である。


 陸遜は何も思わず、その柔らかい布に手を伸ばしていた。




「――ならん。張遼ちょうりょうはまだ信都しんとに置いておけ。

 奴の武は五月蝿い。戦地に置けば必ず戦功を挙げる。

 だが今必要なのは戦功ではない。

赤壁せきへき】で消耗した兵力をある程度のところまで取り戻すが急務だ」




 外の回廊に出るとすぐにそんな、明瞭な声が聞こえて来た。


 右の方を見遣ると、回廊の段差を椅子のようにして腰掛けた姿で書簡を読みながら、司馬懿しばいが副官らしき男二人に指示を与えている所だった。


「今、焦って出て行って取り繕い勝った所で、我が軍の赤壁の惨敗の記憶などは色褪せん。

 早くても戦は来年の初春までやらん。私の意志をよく伝えておけ」


 一礼し、二人の男が回廊の向こうへと姿を消していく。

 一人になると司馬懿はまた手元の書簡に視線を落す。


 夏空に、黒い蝶が下の方から飛んで来て司馬懿の側に留まったが、彼は全く無視をしたので、そのうちにふわっとまた上空へと飛んで行った。

 陸遜は蝶の優雅な羽ばたきを目で追い、途中で視界から外し、回廊から見える眼下の景色の方に見入った。


 巨大な城にその外門の向こうに整然と広がる、広大な石の都。


 街の終わる外壁の向こうまで、青い空が抜けていく。


 遮るものは何もなく、白い鳥だけが時々、過って行った。



 なんて広い空なんだろう。



 コツ……。


許昌きょしょうの都だ」


 靴の音が響き、隣に司馬懿が立った。


「かつてかんの国の都だった【洛陽らくよう】。

 董卓とうたくは荒廃した洛陽を捨て、献帝けんていまつり、都を【長安ちょうあん】に移した。

 そして曹操そうそうは――この地に新しい都を造った。

 時の権力者は帝を奉りながら新しい都を定め、自分の威勢を誇る。

 曹丕そうひ殿には、その意志も願望もどうやらないようだがな」


 新しい都なのか。


 確かに建物の色もまだ風化せずに明るく、新鮮な雰囲気が漂っている。



「ここは長らく曹孟徳そうもうとくの居城だったが、長江ちょうこうでの大敗以後――曹丕殿の居城になっている」


 陸遜りくそん司馬懿しばいを見上げた。

 彼も紫闇しあんの瞳で、陸遜を見下ろしている。

 唇に微かな笑みがあった。


「【赤壁せきへき】などと、呼ばれ始めているらしいな」


 陸遜は首を街の方に戻す。


 目の前の青い空が不意に黒く覆われ、

 黒い天を底から、赤い明かりが煌々と照らし出した。

 記憶に焼き付いた景色。 


 誰かが言ったのだ。

『紅い炎がまるで壁のように』と。


 その景色を見上げて兵達も、将軍も、江東こうとうに戻るまでの船上で涙を流した。


 赤壁は呉蜀ごしょく連合軍の大勝利だった。


 ――いや。


 孫呉の勝利だ。

 しょくなど。

 陸遜は心の中で強く思う。 


 いずれにせよ呉が単独で仕掛けた所で、負ければ矛先が蜀に向いただけだ。

 あそこに孫呉ほど強力な水軍はいない。

 曹魏そうぎは赤壁前に、涼州騎馬隊りょうしゅうきばたいに壊滅に近い打撃を与えている。

 周瑜しゅうゆは蜀と真の意味で同盟を結ぶつもりはなかったし、曹操とて呉蜀が同盟する可能性くらい見越していて驚きも無かっただろう。

 

 呉の戦いに参戦しなければ、次は蜀が討ち滅ぼされていただけだ。

 したがってあの時、呉と共に戦わない選択肢など最初から蜀にはなかったのだ。


 だからあれはの戦い。

 孫呉の勝利だ。


 そう陸遜は考え、ぎゅ、と見慣れない景色を見つめながら拳を握り締めた。


 そしてここは許昌きょしょう

 孫呉の都ではない。


 そもそも勝利とは、何なのだろう。



「…………赤壁の戦いは呉の勝利ですか?」



 陸遜は石の都の先に広がる、どこでもない空を見つめながら呟いた。

 答えを期待したわけではなかったが、口に出したかったのだ。

 だが答えは返った。



「勝利だろうな」



 簡素な文官服の袖を揺らし、司馬懿しばいは悠然と腕を組んだ。


「勝利以上に意味もある。

 赤壁での敗北は曹孟徳の時代を終わらせた。

 この地は長く曹操そうそうの居城だったのだ。

 大岩のようにあれが死ぬまで、どくことはなかったかもしれない。

 だが、風が吹いた。

 新しい時代の風だ」


 呉でもそういう話を聞いた。


 これまで孫呉を文字通り、先頭に立ち導いて来た孫策そんさく周瑜しゅうゆがいなくなり、呂蒙りょもう魯粛ろしゅくは新しい導き手となることを期待されている。

 新しい時代を生きねばならないと、孫権そんけんも言っていた。



「……新しい時代が来ることはいいことですか?」



「いや。良くも悪くも出来る。

 しかし確かなことは、物事というものは流動的でなければならん。

 それはかん王室の例を上げただけでも分かること。

 流れが遮られ、留まり、淀めばそこから必ず膿んで来る。

 膿みは健全なものにさえ広がり、壊死させる。

 新しい風は必要だ」



 孫策と周瑜がもっと生きて、国が悪くなって行くなどとは、陸遜は思えなかった。


 確かに、利権や、専横は人の心を腐らせる。


 だが孫策と周瑜は、それを求めた人ではなかった。

 戦の時代に生まれた、指導者。

 誰よりも強い、進もうという意志と、導いてやらねばならないという使命感。

 だから彼らは先頭に立って戦っていたのだ。



『平和な世が来たら、剣を置いて、ふたりで』



 後世の、そこに生きる者達の姿を眺めながら楽しく過ごしたいと、そう言っていた。


 彼らはそういう人たちだったのだ。


 例え自分たちは血に塗れて戦ったとしても、もたらした平和な世で、次の時を生く者達が剣や弓を持たずに平穏に生きていけるなら、そのいしずえになるというのなら自らは戦いばかりの人生でも本望だと、そう思うような人たちだった。


「孫呉は赤壁で勝利をおさめ――孫策殿と周瑜将軍を失いました。

 あまりに重い、痛手だったと思います。

 そしてに生きる貴方は、負けて、目を輝かせて、新しい風が吹いたと言う。

 ……私にはもう……」


 龐統ほうとうにとっての勝利とは、なんだったのだ。

 諸葛亮しょかつりょうの呪縛から逃れても、彼はきっと孤独になった。

 あれほどもがき苦しんで諸葛亮の許に辿り着いて、彼はその存在を否定された。


 彼の払った犠牲。

 諸葛亮とて何も悪くない。

 彼は自分の運命のわだちを、劉備りゅうびが回してくれたと言っていた。


 会いたい人に会えたことを、否定する権利は誰にも無い。


 だとしたら龐統の長い苦悩の時間は、無意味だったのだろうか?



「歩んでいく道の先に望むものがあると思うから、

 それを信じているから人は歩んでいける」



 司馬懿が隣に立つ陸遜を見る。

 いずれの戦場で会い見えた時にも見せた陸伯言りくはくげんの覇気が、全く消え去っていた。


「進んだ先に何も無いのなら、苦しみながら歩む人はいない」


 


「そうとは限らん」




 コツ……、


 光が射して来たその場所を嫌い、司馬懿は影に向かってゆっくりと回廊を歩き出す。


「見立てが無くても、そこに留まり朽ち果てるよりはマシな時もある」


 陸遜は拳を握り締めた。

 そんなことは思わない。

 進めばきっと、また誰かを失う。



「そう思うのは、貴方が、今までを心から大切だと思っていないから」



 初めて建業けんぎょうの城に来た時、孫策そんさくに謁見する前、庭で待っていると対面の部屋から一人の青年がじっとこっちを見ていた。

 その時は分からなかったが後に聞くとそれが、周瑜しゅうゆだった。


陸康りくこうを討った孫家に下るなど』と散々陸家で揉めて、信頼する使者も立てられなかったから、陸遜は自分の足で建業にやって来たのだ。

 自分はまだ非力で、見た目も子供で、そんな自分が来たところで陸家が侮られることは分かっていても――当時は誰も信じられなくても、自分のことは信じれたから。


 孫家に何を言われようと、陸康の為だと、陸康が守ろうとしたものをここで失ってはいけないと思って、敵意はもうない、どうか我々を庇護していただきたい、臣下の礼を取りますゆえと真摯に訴えられるのは、自分しかいないと思ってやって来た。


 心細かったが、庭越しに周瑜に見つめられ、あれは誰だろうと思いながらも、城にいるあの一目で非凡であることが分かる美しい青年が、静かに見返してくれたことで陸遜は少しだけ心が慰められた。


 ……例え自分が死んでも、周瑜への恩に応えなければならなかったのだ。


 甘寧かんねいはこれから【臥龍がりゅう】を討てばいいと言ってくれた。

 虞翻ぐほんも、これからでも恩は返せると言ってくれた。


 陸遜は龐統を斬るつもりだった。

 望みを手に入れ、満たされた【鳳雛ほうすう】を討ち取り【ついの星】を失った【臥龍がりゅう】も斬る。


 その二つの首を周瑜の墓前に捧げる。

 それが陸遜の誓いだった。

 


 でも龐統の亡骸を燃やして、その灰を綺麗な夜空に見送った時から、何かが自分の中から失せてしまった。


 戦う意志なのか、

 覚悟なのか、

 進みたいという願いなのか、それは分からない。


 【剄門山けいもんさん】の戦いから帰ったら、そうなってしまった。


 赤壁せきへきのことを思い出そうとしても、

 あの戦いで見せた、周瑜しゅうゆの苛烈な魂を思い出そうとしても、胸に滲み出るのは切ないほどの痛みだけ。

 多分この状態で開戦すれば自分は容易く死ぬだろうと、陸遜は初めてそれが分かった。


 初めて手にした時から驚くほど手に馴染んだ【銀麗剣ぎんれいけん】【光華こうか】という二振りの双剣だったのに、近頃はひどく重く感じるようになっていた。


 自分が、自分の心の弱さで死ぬならまだいい。諦めがつく。


 だが陸遜は軍師だ。

 次の戦でも兵を率いて戦わねばならない。

 覚悟も決まっていない、戦う意志すら定まっていない、そういう軍師に率いられる兵達はいい迷惑だ。


 彼らは孫策と周瑜が集めた大切な呉の兵なのだ。

 一兵たりとも、無駄にしてはいけない。


 ……甘寧かんねいに、言えなかった。


 戦う意志が戻って来ないなどと、誰よりも彼には言えなかった。



(あの人は例え敵中に一人で残ったとしても、戦う意志を失ったりしないひと)



 赤壁で向けられた激しい怒りを思い出す。


 あれは本気の怒りだった。

 戦えなくなったら、自分はきっと甘寧にとっても無価値になってしまう。



 だからといって逃げてどうする。



 そう、自分を奮い立たせようとしていた矢先のことだった。

 陸遜はこんな状況でも今、自分はどこか心が落ち着いていると思っていた。


「私は、構わない。

 進んで、これ以上大切な誰かを死なせるなら、

 孔明こうめい先生を殺しても、……もう、得るものは」


「孔明?」


 陸遜は押し黙る。





「――――人など、いずれ皆死ぬ」





 冷めた表情と声音で、司馬懿しばいは言った。

 俯いていた陸遜は息を飲む。


「この灰色の都を見ろ。陸遜。

 この石の巨都きょとを、あの男は一代で築き上げた」


 口の端に笑みが滲み出す。



「その男が間もなく死ぬぞ! 

 戦で負けたのでもなく、病でも、傷でもなく――寿命でだ!」



 曹丕そうひに仕えるとはいえ、魏の名門司馬家も、曹操そうそうのもたらした恩恵にあずかって来ただろう。


 何故曹操が死ぬとそう言って彼は今、笑うのだろう。

 何故その笑みが……こんなに明るいのだろう。



「曹操が死ぬことが……そんなに嬉しいのですか?」



「嬉しいのではない。面白い。あの男はまさに乱世の奸雄かんゆうだった。

 いなくなれば、大きく風が動く。

 世界がまた動き出す。

 才があればその動きを、己の望む方へと手繰り寄せることも出来よう。

 自分があと三十年、早く生まれていたらなどと思うとゾッとする。

 もしそうだとしたら――すべてあの男の影に飲まれて、何一つ成し遂げられなかっただろうからな。

 なにをするにも、これからは自由だ。

 こんな面白い時代はない」


 

(面白い……?)


 戦に関わって、陸遜の思ったことも無い感情だ。


 彼はいついかなることも、必死だった。

 必死で懸命にここまで来たから、そういう自分の人生を面白いなどと思う余裕は全く無かった。


 孫策と周瑜の姿が過る。

 激しい戦いの最中でも楽し気に二人で笑い合う姿を、幾度も見た。

 

(もっと、そういうことを、聞いておけばよかった)


 考えて、首を振る。


(いや……。周瑜様は、答えて下さらなかったかもしれないな)



 あの人は、人の生き方に対して『こうしろ』などと言う人ではなかった。



 人間は一人一人、生き方を自分で選ぶのだ。

 選択肢が例え自由でなくとも、

 道が幾つかしかなくても、

 たった一つでも、


 それでも一人一人が、それが自分の道だと思い定めて選ぶ。




「――何故――……わたしを、殺さないのです……」




 司馬懿しばいが陸遜を振り返る。

 答えるには、迷いが無い。

 この男はいつもそうだ。

 返答に詰まって言葉を迷わすところを、見たことが無い。



「お前は非凡だ。 

 私は呉蜀を討ち滅ぼし、曹丕そうひ殿に一つの天下を取らせる。

 言わば、呉は滅びゆく国。

 お前の才はまだ光るだけで、羽搏いてはいない。

 お前と戦場で会い見えた時、迷いなく私に刃を突き立てて来る覇気に、

 恐れの無さと、その――生きるに飢えた目が気に入った。

 お前は戦場で輝く。

 腐らせるには惜しい」


 何故、戦場で不意に会ったこの男が、そんなことを言うのだろう。

 陸遜りくそんは長い間――他人の不理解に晒されて生きて来た。


 勿論それでもやって来れたのは、

 批判する人間もいたが、

 陸遜を信じ庇護してくれる人達が確かにいて、

 その人たち一人一人が、陸遜が素晴らしいと尊敬出来るような、

 そういう人たちだったからだ。



「お前が望もうが望むまいが、才ある者は呼ばれるものだ。

 相応しい所へな。

 元より、お前は飄義ひょうぎ如きの手に堕ちる器ではない。

 だがお前はここに来た。

 お前を見い出した周公瑾しゅうこうきんは、赤壁では夏侯元譲かこうげんじょうさえ血眼になって首を欲しがった、稀代の軍師だった。

 あの男ならばお前を使いこなしたやもしれんが、奴は去った。

 お前は呼ばれたんだ。

 私という才に」



 陸遜は小さく首を横に振った。

 首は振ったが、気配はごく静かだ。


「そんなはずがない……曹魏とて、才ある人材は山ほどいるはず」


「山ほどいる才とやらに埋もれる才を、この私がこれほど手を掛け追い回すとでもお前は思っているのか?」


 ――思わない。


 だからこそ分からないのだ。


 自分はここで、殺されるのだと思っていたから。


 才があるから殺さないなどと言われても、到底信じれない。

 その話こそ、何か悪い企みで自分が騙されてる一端なのではないかと思う。

 その方がずっと現実味がある。


 だけど。


 陸遜は司馬懿を見上げた。

 だからこそ、この男にはもっと暗い目を今していて欲しいのだ。

 いつかのように自分に怒りを向け、残虐に殺してやろうという目をしていて欲しい。


 それなのに今この男は面白い玩具を見つけた子供のような明るい瞳で自分を見て来る。

 その意味が分からないし、信じられない。


「……貴方といるのは、よくない。

 自分の勘が、そう告げてる気がする。

 貴方には迷いが無い」


「いいことではないか」


 淡々と返して来る。

 これはそんな単純なことではない。


「暗い夜の海で、星も見えない空の下で、

 何の目印も失って彷徨っていた人間が、

 一つ明かりを見つけたら、

 必ずその光に心惹かれて近づいて行ってしまうものです。

 私は決して呉を裏切れない。

 裏切る時は、この手で喉を突く時です」


 ひかり、か。


 司馬懿は小さく笑ったようだ。呆れた声にも聞こえた。


「自分がどうやって死ぬか決めることなど、当たり前のことだ。

 それを出来ない奴は弱いのだ。

 お前が死を選べぬはずがない」


 フッ、と笑う音が聞こえる。


「……だがお前は死なんだろうよ。

 戦場の昂揚を覚え染みつけば、死んでみせるなど愚かだということがすぐに分かる。

 この時代、死ぬは容易い。

 生きるには知恵が必要だが、生きて勝利を得られる者など、更に少ない。

 お前は戦場に身を置くことが、楽しくは無いのか。陸遜」



「楽しくなど……!」



 楽しくなんてない。


 孫策そんさく

 周瑜。

 龐統ほうとう


 悲しいことばかりだ。

 楽しくなんてない。


南陽なんようで見かけたお前は――随分楽しそうに見えたがな。

 策を用いて、自分の仕掛けた策に魏軍が面白いように嵌まり、喜びは無かったか?」


 突き動かされる衝動に任せて陸遜は司馬懿の頬を張っていた。


 もう怖くはなかった。

 殺すなら殺せ、そういう気持ちもあった。

 構わなかった。


 だが頬に平手打ちを食らった司馬懿はくっ、と唇の端を歪ませて笑って見せる。


「何をらしくなく怯えている、陸伯言りくはくげん。お前らしくも無い。

 虎にも牙を剥いた、お前の威勢を見せてみろ」


 打ったのは自分なのに、陸遜りくそんは無力感を感じた。

 歩き出した司馬懿しばいの背を見遣る。

 こうしていても周瑜や、孫策に感じた温かさや憧憬を、この男に感じることは全くない。



(それなのに、何故……)



 陸遜は俯いた。


 何故今、この男の背に、並んで歩いていた孫策と周瑜の姿を思い出すのだろう……。





「あなたは……私の手で死なせられないほど、強いですか?」





 数歩、美しい宮殿の回廊を歩いて行った司馬懿が振り返る。



「当然だ。」



 回廊に沿う水路に咲く蓮の花が、優しく風に揺れた。


 何故か分からないがその一言を聞いた時に胸が安堵して一筋、左の目から涙が伝った。



「お前は才はあるが、まだせいぜい蕾。

 ――私の手で咲き誇らせてやる」



 握るべき剣を失った指先に、蓮の柔らかな花弁がそっと触れる。


「【鳳雛ほうすう】が死んだらしいな」


 びくと陸遜の体が、叱られた人のように大きく震える。


「どんな才を持っていようが死ねば終わりだ。

 才ある者と名は響いていたのに、あの男は何も成さず死んだ。

 大層な異名も、これでは近々掻き消える。

 忘れ去られたくないのなら、生きるしかないのだ」


 龐統ほうとうは負けて死んだんじゃない。


(わたしも、永遠に忘れたりしない)


 でも……、


 今は自分自身が龐統を失った傷を一時忘れても、歩み出さなければいけない。

 ここで立ち竦んでいては、本当に二度と立ち上がれなくなる。


(歩み出さなくては)


 ぐい、と手首を強く掴まれる。


「歩み出すぞ。陸伯言りくはくげん

 この私に二撃も食らせておきながらここで惨めに終わるなど許さん」


 司馬懿は目を輝かせて笑むと、無遠慮に陸遜りくそんの手を掴んだまま歩き出した。


 歩み出した瞬間手の甲を触れた花弁が擦り、まるで誰かが「行くな」と後ろから掴もうとしたような感覚に思えた。


 陸遜は思わず、後ろを振り返った。

 

 しかしずっと先まで遮るものなく続いた回廊があるだけだ。

 引き留めようとするものなどいない。


 見通しなど無い。


 呉にいる時でさえ【剄門山けいもんさん】から帰還してから、国として何をすればいいかなど全く見えなくなっていた。

 軍議では確か、しょくの様子を窺いながらも、今は兵力を蓄え国の平定に努めるべきだなどという話が出ていた気がする。



『取るべきだ』



 甘興覇かんこうははそんなことを、主張していた。


「時を挟めば挟むほど曹魏は元の兵力を取り戻す。

 合肥がっぴか――江陵こうりょうから侵入してこの機に荊州けいしゅうを完全に取るべきだ。

 このまま何もしなければ曹魏が再び攻めて来た時に、

 二度も赤壁せきへきのような大掛かりな計略は使えない。

 赤壁が使えないばかりか、周瑜さえもういねえ。

 長江ちょうこうは対曹魏の防衛線にはなる。

 でもそれだけじゃ守りは薄い。

 もう一つそれより江北こうほくに防衛線を作るんだ。

 陸地でも戦が出来なけりゃ、また攻め込まれるだけだぞ」


 孫権そんけん達の反応は、慎重だった。

 

 江陵に増兵した時は、蜀が打ちかかって来るならば返り討ちにしてやれ、とあれほど呉の人々は勇ましかったというのに、孫黎そんれいとのことで書面の遣り取りはないとはいえ蜀と一瞬の協定が出来たとでも思ったのだろう。

 戦になっても彼女を殺さず返すと趙雲ちょううんが約束したため、蜀からの侵攻には猶予があると思い込んだのだ。


 結局あの【剄門山けいもんさん】での戦いは、一度上がりかけた孫呉の赤壁せきへき伝いの勝利の戦気を、変な風に鎮めてしまっただけだった。


 ……しなければ良かった。


 心の底に浮かんだそんな後悔を、陸遜は一層恥じた。


 戦をしてそこで兵を消費した以上「しなければ良かった戦」などと後悔するような戦いは決してしないようにしようと昔から自分に戒めて来たというのに、今ははっきりとそう思ってしまった。しなければ良かったと。


 あの戦いをしていなかったら、龐統も死なずに死んだかもしれない。

 絶望しても、それを受け入れて、生きて行ったかもしれない。

 生きている間に、変わることなどいくらでもこの世にはある。


 龐統の未来の可能性を、あの戦いで全て潰してしまった。


 鈍い反応をする軍議で、甘寧かんねいが自分に同意を求めるような視線を送って来たのが分かったが、陸遜は悪いと思っても彼を見返せなかった。

 甘寧の言うことも一理あるとは思ったけど、それが正しいと信じ抜くことが出来なかったのだ。

 自分がいつものように自信を持って彼の目を見て頷けば、甘寧はきっともう少し出兵を働きかけただろう。


 主戦派しゅせんはの甘寧が黙ったので結局、孫呉ではしばらく様子を見ながら兵力の回復を、ということになった。

 各前線の守備を固めつつ新兵を鍛える。


 自分が歩み出さなければ誰も歩こうとしてくれない、そういう状況に今の孫呉はある。



 躊躇いがちだった陸遜の足取りは、司馬懿しばいに引かれて徐々に迷いが失せて行った。


 その時、自分には歩み出してくれる人が必要だったのだということが分かった。

 自分の前を、歩んで見せてくれる人が。

 孫呉における死を、何とも無いのだと言ってくれるひと。


 みんな大切な人を失った人たちなのだなどと思っていては、戦えなどという号令も掛けられなくなる。


 孫呉ではない空。

 見知らぬ街の、見知らぬ宮殿。


 すれ違う誰も――自分を知らない。


 陸遜の心は安堵した。

 自分の弱さに心底失望はしたが……それよりも何よりも、今は安堵したのだった。


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