第12話 塩の向こうにあるもの

昼過ぎの曇り空は、すでに梅雨の匂いを含んでいた。

半日授業が終わり、校舎全体がどこか緩んだ空気をまとっている。


神崎美月は、教室の片隅で制服の襟元を緩めながら、ゆっくりと帰り支度をしていた。

机の上では、使い古した筆箱と手帳が無言のまま並んでいる。


「ねえ、美月。ちょっと寄ってかない?」


突然かけられた声に、顔を上げると、沙耶がリュックを背負いながら立っていた。


「うち、今日午後は手伝い休みでさ。親に『友達連れておいで』って言われてて」


「……私で、いいの?」


「なにそれ。うちの親、他人にうるさいけど、美月は気に入ると思うよ。たぶん、話せば分かるタイプ!」


その“たぶん”に若干の不安を感じつつも、美月は頷いた。


「じゃあ……お邪魔させてもらうね」


沙耶が小さく笑い、二人は並んで校門を後にした。


 


沙耶の実家は、駅前商店街の角にある昔ながらの定食屋だった。

『しらとり食堂』という木の看板に、手描きのメニュー表。

古びてはいるが、どこか温もりを感じる佇まいだ。


「ただいまー!」


沙耶が暖簾をくぐり、声を張る。

その瞬間だった。


「沙耶!」


中から現れたのは、割烹着姿の母親だった。

その顔には、明らかな警戒と怒りが浮かんでいた。


「えっ、ちょっと……その子は……!」


美月を見るなり、彼女の顔が引きつる。


「その子、神崎組の……!」


「ちがうよ! 美月は……!」


「入れないでッ!」


母親は叫びながら、手にした紙包みを美月の足元に投げつけた。

バサッと音を立てて紙がほどけ、白い塩が地面に広がる。


美月は、一歩も動かずにそれを見つめていた。


そこに、厨房から包丁を持ったままの父親も出てきた。


「沙耶、なにを考えてるんだ。組の人間を家に入れるなんて!」


「組の人間じゃない! 美月は、そんな人じゃない!」


「関係ない! そういう世界の人間は、うちは関わらないって決めてるんだ!」


「だったら、話してみてよ! 美月のこと、なにも知らないくせに!」


美月は、小さく息をついて、沙耶の肩に手を置いた。


「……大丈夫。ありがとう、沙耶。でも、ここは帰るね」


「でも……!」


「うちは、こういうの、慣れてるから。気にしないで」


微笑みながら、美月は塩の上を避けるように一歩後ろへ下がった。

そして、地面に散った塩をじっと見つめ、丁寧に一礼した。


「今日は、ご挨拶できただけで十分です。ご飯、またいつか。……もし、許される日が来たら、そのときに」


沙耶の母は何も言わず、ただ拳を握りしめていた。


美月はその場を離れ、静かに商店街を歩き出す。

背筋を伸ばし、涙を見せることもなく、歩幅は崩れなかった。


沙耶は、なにもできずにその背中を見送った。

そして、地面にこぼれた塩の白さが、夕暮れに溶けていくのをただ見つめていた。

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