第12話 [痛みの向こうで]
海底の岩陰に、ナギは身を潜めていた。
水は澄んでいるのに、胸の中は濁ったままだ。
ずっと、目を閉じていた。
水が肌をなでる感覚が、やけに敏感に伝わる。
——見られた。
その事実が、何度も心の中でこだまする。
わたしがまだ知らなかったものを、
彼は先に気づいてしまった。
知られたくなかったわけじゃない。
だけど、“わたしのままで”知ってほしかった。
ヒレのまま、歌えないまま、
名前がなくても、笑っていられる「いま」のままで。
けれど、その“まま”は、
もう、崩れはじめていた。
足の感覚は明らかに変わっていた。
関節があり、骨のかたちがわかる。
動かそうとすれば、これまでになかった方向へ曲がる。
これは、もう「ヒレ」ではない。
ナギは、海底の砂をぎゅっとつかんだ。
この場所は安心だった。
誰にも見つからず、誰にも触れられず、
ただ沈んでいられる場所だった。
でも、
彼はそこへ降りてきてしまった。
そして、手を差し出した。
タオルひとつ。
言葉もなく、責めもせず、ただそっと置かれただけ。
そのやさしさが、なぜこんなにも胸に刺さるのか。
ナギは水中で身じろぎし、
ゆっくりと浮上していった。
月はまだ高く、空に浮かんでいた。
岸辺にはもう彼の姿はなかった。
けれど、波打ち際に置かれたタオルは、
そこにまだ、あたたかさを残していた。
ナギはそっと顔を出す。
誰もいない夜の浜辺。
だけど、誰にも見られていないことに、
ほんの少しの寂しさを覚える。
そうだ。
彼に会いたい。
ちゃんと、もう一度、目を見て話したい。
この足のことも、
ヒレがなくなっていくことも、
わたしがどうしたいのか、自分で決めたい。
誰かに決められるんじゃなくて、
“変わってしまったから”でもなくて、
わたしが、わたしとして、選びたい。
——そのためには、立たなきゃいけない。
その思いが胸に浮かんだ瞬間、
水の中で、ナギの身体がふわりと浮いた。
ヒレの先が、また少し、裂けていた。
それは痛みを伴わなかった。
けれど、見ているだけで泣きそうになるほど、怖かった。
でももう、逃げるのはやめよう。
波間から、そっと岸へ身体を向ける。
遠い。
たった数メートルなのに、何より遠く感じる。
だけど、ナギはヒレを動かした。
前に出る。
それだけのことが、こんなにもこわくて、
それでも、してみたいと思えたのは、
きっと、あの人がいてくれたからだ。
足元に感じる、水の重さ。
ヒレがうまく動かない。
でも、その代わりに、
足のような形をした“なにか”が、
わたしを水から押し上げようとしていた。
その感覚に、ナギは初めて身を任せてみた。
——わたしは今、
変わろうとしてる。
でもそれは、
“誰かになる”ためじゃない。
“わたしとして、誰かに触れる”ため。
波が背を押すように、静かに打ち寄せていた。
---
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます