第11話 [形を持ちはじめたもの]
その夜、波は穏やかだった。
けれど、ナギの胸の奥はざわついていた。
身体の底に残っていた痺れは、消えていなかった。
あれから何度も確かめた。
けれど、水の中での感覚は曖昧で、
“いつもと違う”ということしかわからない。
——わたしの身体に、何が起きてるの?
怖かった。
でも、それ以上に、確かめたい気持ちがあった。
もしこの“変化”が、
あの人と向き合いたいという気持ちの先にあるものなら——
岸辺には、彼の姿があった。
今夜は、波打ち際に立っている。
ナギと、ほんの数メートルしか離れていない場所に。
「ナギ、いる……?」
その声に、ナギはゆっくりと水面に顔を出した。
月の光が強く、
水の透明度が高い。
——まずい。
そう思ったときには遅かった。
彼の視線が、ナギの下半身に向いていた。
水面すれすれに浮かぶナギの身体。
そこに、わずかに“ヒレではない形”が見えてしまっていた。
「……え?」
彼の口から、かすかな声が漏れる。
その一瞬、ナギの心がぎゅっと縮こまった。
何かが剥がれるように、胸の奥がざわめいた。
見られた。
まだ、自分でも見きれていないものを。
まだ、信じきれていない“変化”を。
それを、
一番見られたくなかった人に、
先に気づかれてしまった。
ナギはすぐに潜った。
波が跳ね、水が割れる。
彼の声が届く前に、深く、深く、沈んだ。
身体が重い。
ヒレが思うように動かない。
水の中で、自分の動きに違和感がまとわりつく。
——これが、足?
そんな言葉が頭をよぎって、ナギは目をぎゅっと閉じた。
海の底で、膝を抱えるようにして丸くなる。
すると、自然と曲がる関節があった。
そこは、もうヒレではなく、脚の形を成しはじめていた。
——やだ。
思わず、そう思ってしまった。
だってこれは、自分じゃない。
これまで信じていた「かたち」から外れていくことが、
こんなにも怖いなんて。
自分の輪郭が、
崩れていく。
いや、違う。
——変わっていくんだ。
望んだつもりはなかった。
けれど、それを止めることも、もうできない。
海の流れが変わる。
水面の向こうから、何かが近づいてくる気配。
恐る恐る戻ってみると、
彼の姿はもうなかった。
けれど、波打ち際には、
一枚のタオルが静かに置かれていた。
誰かが座っていた跡。
水に濡れた靴の形。
——きっと、探しに来てくれたんだ。
そう思うと、ナギの心にまた痛みが走った。
彼の前から逃げてしまったのに、
それでも、ここに何かを残してくれた。
声ではなく、言葉ではなく、
ただ、そっと差し出された“やさしさ”。
ナギは、それを拾い上げることはしなかった。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
波に揺れるタオルの白が、
まるで今の自分のように感じられた。
まだ形が定まらない、
不安定で、柔らかくて、
それでも確かに“そこにある”存在。
ナギは、海の奥で目を閉じた。
この身体が、
この想いが、
かたちを持ちはじめてしまった。
——それでも、
あなたに触れてほしいと思ってしまったのは、
たしかに、わたしだった。
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