第10話 [水面に揺れる予感]

海は静かだった。

空には雲ひとつなく、月が真上に浮かんでいた。

夜の光は海を照らし、波の輪郭が銀色に浮かぶ。


ナギは、波のすぐ下にいた。

顔を出す前から、彼の気配を感じていた。

それはもう、何日も繰り返された「予感」のようなものだった。


“きっと今日も、来てくれてる。”


そう思うだけで、海の冷たさが少しだけ和らぐ気がした。


そっと水面から目を出す。

やはり、彼はいた。


岸辺のベンチに腰をかけ、

遠くを見つめている。

その視線は、海に向けられているのか、

それとも、ナギを探しているのか——


ナギは、もう少しだけ水面に顔を出した。


「今日、綺麗だね。海も、空も」


彼は言った。

言葉はまるで月の光のように、まっすぐでやさしかった。


ナギは何も答えず、ただ目を閉じた。


そのときだった。


じん……と、足の先に熱が走った。

いや、“足”ではない。

それはヒレの奥。

これまで意識したことのなかった、鱗の根元のあたりだった。


——なに、これ。


初めて感じる重み。

ヒレが水の中で、いつもより鈍く動く。

潮に乗って揺れるはずの部分が、

どこか“かたく、厚みを持って”いた。


「ナギ?」


彼の声が重なって、胸の奥がはっとする。


動けない。

いや、動きたくない。

もし今、この違和感が“見えて”しまったら——


ナギはそっと波の奥に沈んだ。

完全に隠れるわけではなく、

顔を半分だけ、水に戻した。


彼は、それでも笑ってくれた。


「無理しないで。そこにいてくれるだけで、うれしいよ」


その声に、ナギの心が揺れる。

うれしい。でも、こわい。

そのどちらも本当で、うまく抱えきれない。


ナギは視線を下げて、

自分の“ヒレ”を見た。


暗がりの中で、わずかに違って見える。

ほんの一部だけ、形が変わりはじめているようにも見える。


——何かが始まっている。

けれど、それはわたしが望んだこと?


違う。

わたしはまだ、

何も選んでいない。


「……少し、近づいてもいい?」


岸辺から彼が問いかける。

足元の水が、彼のズボンの裾を濡らしている。


ナギは一歩、波の奥へ引いた。

本能的に、そうしてしまった。


こわいのは、彼じゃない。

こわいのは、“自分自身”だった。


「……ごめん」


彼はそう言って、もうそれ以上近づかなかった。


ナギは、水中でヒレを巻くようにして身体を抱いた。

わずかな変化に怯えている自分が、情けなくて、

それでも、このまま壊れてしまうのが怖くて。


海がやさしく包む。

まるで、変わりゆくナギを、

否定もせず、肯定もせず、

ただ静かに受けとめているようだった。


その夜、ナギは深く潜らなかった。

波の下で、じっと、

足ではない何かが、ゆっくりと“形”を変えていくのを感じていた。



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