第8話 [波間の異変]

海は穏やかだった。

波のリズムが、呼吸のようにゆるやかで、

まるで「おいで」と言っているようにも感じた。


でも、ナギは動けなかった。


顔を出して、彼の姿を見て、

名前を呼ばれて、笑い返されて、

それだけで精一杯だった。


ほんの数歩、近づけば、きっと手が届く。

けれど、その“一歩”が、今のナギには重たかった。


ヒレが水の中で、ふわりと揺れる。

身体は軽いのに、心が沈んでいた。


——どうして、わたしは進めないんだろう。


怖いから?

また剥がされるかもしれないから?

信じたくても、信じきれないから?


彼は、変わらずそこにいる。

毎晩、何も言わず、ただ静かにベンチに座って、

波を見つめている。


「ナギ」


名前を呼ばれるたびに、胸の奥が波打つ。

その響きが、やさしくて、くすぐったくて、

でもどこか、苦しくもあった。


こんな風に、誰かに“待ってもらう”ことが、

こんなにあたたかくて、こんなにこわいなんて。


今日は、少しだけ潮が引いていた。

水面は澄んでいて、底の砂まで見える。


波が足元を撫でるたび、

ヒレの先が砂に触れた。


くすぐったいような、冷たいような、

なんだかよくわからない感覚。


——もし、あの人の近くまで行けたら、

波打ち際まで近づけたら、

なにかが変わるだろうか。


そう思うたびに、胸がきゅうっと苦しくなる。


行きたい。

でも、行けない。


そのくり返しで、今夜も終わっていく。


「ナギ、聞こえてる?」


岸辺から、やさしい声が届く。


わたしは、うなずく代わりに、

少しだけ波の奥でまばたきをした。


彼は、それをちゃんと見ていた。


「そっか、よかった。……今日も、会えてうれしいよ」


その言葉は、

波よりも静かに、心の中に届いた。


沈んだまま、顔を上げることすらできなかった夜を、

わたしはたくさん過ごしてきた。


声を失ったまま、

名前も忘れたまま、

ただ、波にまかせて揺れていた時間。


それを、「わたし」と呼んでいいのかどうかも、わからなかった。


でも今、確かにこの胸に“名を呼ばれる喜び”がある。


その音は、わたしの輪郭をなぞってくれる。

まるで、「君はここにいる」と言ってくれているみたいだった。


——それなのに。

近づけない。


ヒレが砂に触れた。

小さく揺れる。

水は透明で、彼の姿は、すぐそこに見えるのに。


「今日はね、昼間、ちょっと嫌なことがあってさ」

「でも……ここに来たら、なんか落ち着くんだ」


彼の声が、ぽつりぽつりと続く。

わたしはただ、黙って波の中にいた。


話せないことはもう、悲しくなかった。

でも、届かないことは、今でも悔しかった。


“ありがとう”って言いたかった。

“わたしも、来てくれてうれしい”って伝えたかった。


でも声は出ない。

足も届かない。

手も伸ばせない。


それでも、わたしは潜らずにいた。


今日も、潜らずに。


それだけで、

ほんの少しだけ、胸があたたかくなった気がした。


沈んでいく星が、海に映って揺れていた。

まるで波が、それを受けとめているようだった。


夜が深くなる。

彼は立ち上がって、ベンチに手をかける。


「……また、来るね」


その背中が遠ざかるのを、

わたしはただ、静かに見つめていた。


——わたしは今夜も、そこにいた。

沈まずに、波の奥で。


それが今の、

わたしにできる、たったひとつのことだった。



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