第7話 [その手が届く前に]

海辺の空気が、少しだけ冷たくなっていた。

波の色も、風の匂いも、いつの間にか少し変わっていた。


季節が、変わり始めている。


“ナギ”と名づけられてから、わたしの中に、小さな灯りが灯った。

音のないこの世界で、名前を持つということが、

こんなにも温かくて、こわいものだとは思わなかった。


彼は、今夜もやってきた。

波打ち際まで、そっと足音を忍ばせて。


砂を踏む音が、波と混ざって胸に届く。

その音を聞くだけで、息が苦しくなる。


わたしは、そっと波の奥から顔を出す。


彼はベンチにいなかった。

今日は、もっと近くにいた。

靴を脱ぎ、裸足で砂に立っている。

波が、その足先を静かにさらっていた。


「……来ちゃった」


彼はそう言って、少し笑った。


「なんかね、君に会いたくなるんだ。

別に話せるわけでもないのに……変だよな」


変じゃない、と伝えたかった。

でも言葉は、喉の奥で泡になって消えた。


「……今日、いろいろあって。

正直、ちょっと疲れた。

もう全部投げ出したくなるくらい」


彼はしゃがみ込んで、濡れた砂に指を這わせた。

波がさらい、跡を消していく。


「でも、ナギを思い出したら……

なぜか、ここに来たくなったんだ」


静かに流れるその声に、胸の奥が波打つ。


わたしは黙ったまま、彼を見つめた。

それだけで精一杯だった。


彼はポケットから、ノートを取り出した。

湿らせないように両手で持ち上げて、

ページを開く。


そこには、丁寧な字でこう書かれていた。


「君に、もし心がまだあるなら——

そのままでいてほしい。」


その言葉を見た瞬間、

胸の奥が、音もなくきゅっと痛んだ。


ああ。

どこかで、似たようなことを、自分も言った気がする。

届かないまま、沈んでいった声。


でも今、その言葉が、やさしく戻ってきた。


彼は、しばらく波を見つめていた。

やがて、ぽつりと呟いた。


「……前にさ、思ってたんだ。

心なんか、持っててもしょうがないって」


風が、ひとすじ、髪を揺らす。


「痛いし、辛いし……

誰も見てくれないし。

見られたって、分かってもらえるわけじゃないし」


彼の言葉は静かだった。

でも、それがかえって深く響いた。


「だから、隠すようになった。

何も感じないふりして、笑ってごまかして……

心なんか、いらないって思ってた」


砂をつまんで、ゆっくりと落とす。

波がそれをさらっていった。


「でも、君を見てたら思った。

ここにいて、ちゃんと心を持ってるって……すごいことなんだなって」


彼は、小さく笑った。


「そのままで、いてほしいな。

濁ってても、傷ついてても。

君が君で、いてくれたら……それだけで、なんか嬉しい」


ナギは、なにも言えなかった。

でも、彼の言葉は、やさしく胸の奥に沈んでいった。


彼が手を伸ばしかける。

ふと、その動きに息を呑んだ。


触れられたら、壊れてしまいそうだった。

灯った光が、波にさらわれて消える気がした。


だから、ナギは波の奥へ、そっと身を沈めた。


何かを拒んだのではなく、

ただ——こわかった。


光を持つのが、まだ怖い。

名前を持ったまま、誰かに近づくのが、こわい。


水の中で、静かに目を閉じる。


「……また来るから」


水の向こうで、彼の声がした。


ナギは、うなずけなかった。

それでも、胸の奥で確かに思っていた。


——どうか、消さないで。

——どうか、そのまま見ていて。


波は、何も言わずに寄せてくる。

名前の余韻だけを、そっと残して。



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