第四章
喫茶店の外を走るトラックのクラクションの音で、動きの止まっていた佐和子の体がびくっと動いた。
「それ、本当なの?」焦点が定まらない目をしながら佐和子が尋ねた。
私は黙って頷いた。
「心霊写真どころじゃないね……」佐和子は息の呑みながら、寒気がすると言わんばかりに両手で自分の肩を抱いた。
私は佐和子の表情をじっくりと観察しながら話を続けた。
私はしばらく奈美子の胸で泣いていた。きつく奈美子を抱しめ、二度と私の前から姿を消さないようにとしっかり捕まえているのかもしれなかった。
「亜美」麻希子の声が聞こえた。「亜美」もう一度麻希子が呼ぶ。背中を軽く叩かれる感触が伝わった。
私はゆっくりと振り向いた。
「亜美。よかったじゃない。奈美子、会いに来てくれたんだね」麻希子の目が潤んでいた。
先刻の驚愕した表情とは打って変わって、じっと私達を優しい瞳で見つめてくれた。見渡すと、絵美も亜矢子も泣いていた。
「これで、修学旅行が楽しくなるね。今まで写真にしか現れなかったから、つまんなかったよ」亜矢子が言った。
亜矢子はそっと奈美子の服を引っ張った。パーカーを引っ張り、スカートを引っ張る。奈美子は困惑した表情をした。そして亜矢子は奈美子の髪の毛をそっと撫でた。
「本物だ。本物だよ」亜矢子は嬉しそうに笑った。
「亜美はずっと会いたがってたんだよ。もちろん私達も。でもよかった。ちょっとびっくりだったけど、嬉しい」絵美は言うと、亜矢子と同じように奈美子の体を触り始めた。
「ねえ奈美子。これからずっと一緒だねよ?修学旅行、一緒に回れるんでしょ?亜美が悲しむようなことはもうないよね?」麻希子は尋ねた。
「みんな、ありがとう。とても嬉しい。みんなに会うときにはちょっと不安だったから……。私は、みんなに会いたかった。そして、一刻も早く亜美に会いたかった。でも、それはできなかったの。なぜできないかは聞かないでね。どうしても会いたかったから今日の日を選んだの」奈美子は私達を見渡しながら、ゆっくりと話した。「私、修学旅に行くのをとても楽しみにしてたの。亜美と、そしてみんなと一緒に。病気になったときには、もうだめだな、と思ったけど願いが叶えられたみたい」奈美子は微笑んだ。「私はずっとみんなと一緒にいられる訳ではないんだ。だから、最後に一度みんなと会うための日として今日を選んだの。明日には帰らなくちゃならないんだ」誰も何も言わず、私達は黙って奈美子の話を聞いていた。「だから最後のお願い。本当にみんなに会えるのは最後だから、最後のお願い。私も一緒に修学旅行を楽しませてくれないかな?みんなを驚かせたのは謝ります。私と一緒に……歩いてください」
私は、涙を流しながら頷いた。
「当たり前じゃん。何言ってんだよ」亜矢子はそう言うと、私と一緒に奈美子に抱きついた。
絵美も抱きついてきた。
「こちらこそ、私達と一緒に、歩いてください」最後に麻希子が抱きついた。
部屋には私達三人、そして奈美子の鳴き声が響いている。もっと、もっと話さなければならないのに、私は嗚咽のような声しか出すことができなかった。
修学旅行第三日目は、宿泊先のホテルからバスに乗って岡山県に向かうことになっていた。大広間で全学年と朝食を食べ終わると――奈美子は部屋で待っていた――私達は部屋に戻って制服に着替えた。
「いつまで歯、磨いてんの?もう時間だよ」絵美がジャージ姿のまま三分以上も歯を磨いている亜矢子に言った。
「私、歯磨き好きなの。いつも歯磨きで目を覚ましてるんだから」歯ブラシをくわえながら亜矢子が言った。
「じゃ、先行ってるね。遅れちゃだめだよ」麻希子が部屋の洗面所を覗きながら言った。
「ちょっと待てよ」洗面所から亜矢子の声。
「じゃあ、早く。もうみんな着替え終わってるんだから」麻希子が苛立ち気に言った。
亜矢子は私達の見ている前で急いで着替えを済ませ、とても大切そうに愛用の歯ブラシの入った洗面用具をバッグに仕舞った。
「よし、出発。忘れ物は、なし、だね」私は部屋を見渡した。
「みんな、先に行ってて。私、後から行くから」私達がドアを開けようとすると、奈美子が言った。
「なんで?一緒にバスに乗ろうよ。きっとみんな驚くよ」絵美が言った。
「そういう訳にはいかないの。ちゃんとついていくから心配しないで」奈美子は笑いながら言った。
「そう?みんな奈美子を見たら喜ぶと思うんだけどな」亜矢子が言ったので私は頷いた。
「向こうで会えるなら、奈美子の言う通りにしよう。きっと奈美子にも事情があるんだよね」麻希子が言うと、奈美子が頷いた。
「じゃ、そうしよう。倉敷美観地区だよ。ちゃんと来てね。道、わかる?」私は奈美子に尋ねた。
「うん、そうしてもらえると助かるよ。道はわかるよ。どこにでも行けるから心配しないで」奈美子は笑顔で言った。
私達は奈美子に手を振り部屋を出て行った。
バスが倉敷に到着した。私達はバスを降りて、倉敷中央大通りをぶらぶらと歩くことにした。
「わあ。古い家がいっぱいだ」伝統的建造物群保存地区にたどり着くと亜矢子が言った。
たしかに美しい街並みだった。私達はしばらく立ち止って、伝統が地肌に感じることができるような情緒溢れる街並みを眺めていた。
「おまたせ」
私は声がするほうを振り向いた。そこには奈美子が制服姿で立っていた。
「あれ、奈美子、制服じゃん」絵美が驚いたように言った。
「やっぱり皆と歩くには制服のほうがいいかな、と思ってね」
「当たり前だけど、とても似合ってるよ」麻希子が言うと、私は、うんうん、と頷いた。
私達は美しい街並みを見渡しながら歩いた。奈美子は楽しそうに街並みを眺めていた。私は建造物と奈美子の顔を交互に見ながら歩いた。
お気に入りの喫茶屋を見つけては記念撮影をした。
「あはは。ちゃんと写ってるよ奈美子」亜矢子が撮影画像を覗いて言った。
私も撮影画像を覗くと、白い影などではなく、奈美子の姿がきっちりと写っていた。私は嬉しくなった。
民芸品店でも、お土産は買わずに写真撮影中心だった。撮影を終えると、奈美子と麻希子は興味深そうに民芸品を見ていた。私もその中に混じって民芸品を見物した。
街並みを歩いていると、同じクラスの生徒にすれ違った。
「あれ、奈美子に気づかないのかな?」麻希子が不思議そうに言った。
たしかに、同じクラスの生徒は何も見えなかったかのように私達とすれ違った。
「いいの、いいの。細かいことは気にしない」奈美子は嬉しそうだった。
「なんだ。奈美子のことみて、クラスのみんな、びっくりすると思ったのにな」私は溜め息まじりに言った。
私達は倉敷川沿いの遊歩道を歩いた。
「すごいよ、この景色」私が言うと亜矢子が必死に写真撮影をした。
その景色は倉敷川にかかる一本の短い橋。その向こう側には柳の木と白壁の建物が建っていた。
「いいな、この景色。きっと季節が変わるとまた違った風景になるんだろうな。いつか、また来たいな」麻希子が言った。
「私は、たぶんもう来れないと思うから、ちゃんと目に焼き付けておくよ」奈美子の声は少しだけ悲しそうだった。
しばらく美観地区を歩いて私達は引き返すことにした。
「次は、どこだっけ?」絵美が尋ねた。
「後楽園」私は倉敷川を眺めながら言った。
「後楽園っていうと、東京って感じがするよね。東京ドームがあるとろ」亜矢子はまだ後ろにある白壁の建物を見ていた。
「うん、たしかに。でも岡山後楽園も、とても有名だよ。日本三名園なんだから」麻希子が言った。
「三名園。あとは?」亜矢子が尋ねた。
「金沢の兼六園。そして水戸の偕楽園。ねえ、亜美、憶えてる?」奈美子が私を見た。
「もちろん。偕楽園は小学校の遠足で行ったよね」私が言うと奈美子は頷いた。
バスが駐車してある所まで戻ると、他の生徒や先生が集まっていた。やはり誰も奈美子に注意を払っていないみたいだった。クラスメイトも担任も、まるで奈美子のことが見えないかのようだった。もしかしたら、同じ制服を違和感なく着こなしているから気づかないのかと思ったが、それにしても誰一人気づかないというのは変だった。たぶん、私達以外には奈美子のことは見えないのだろう。
「私、バスに乗ろうかな」奈美子がバスを見ながら言った。
「うん、乗りなよ」私は喜んで言った。
バスには私と麻希子が一緒に座り、中央の通路を挟んで絵美と亜矢子が座った。そして通路にある補助席に奈美子が座った。
「ほんとに誰も奈美子に気づかないんだね」亜矢子が不思議そうに言った。
「それでいいのさ」奈美子は満足そうに笑った。「私は、亜矢子、絵美、麻希子、そして亜美に会いにきたんだからさ」奈美子が言うと亜矢子は嬉しそうになった。
奈美子のことは私達だけにしか見えないのだろうか、と私は思った。しかし補助席も出しているし、みんな奈美子にぶつかりそうになると、きちんと避けている。ということは、奈美子のことは見えるのだろう。ただ何も気にならない、ということか……。
「亜美、気にしない気にしない」私の疑問を読み取ったかのように奈美子が言ったので、私は笑顔で頷いた。
「それにしても、中村先生、同じ服だね」私は一番前に座る担任の中村を見て言った。
中村の服は濃紺の三つボタンスーツに鮮やかな黄色いネクタイ、つまり就学旅行初日とまっとく同じだ。初日どころか、旅行中ずっと同じスーツとネクタイを着用している。
「きっとワイシャツも一緒だよ。襟元、汚れてるもん」亜矢子が言った。
「相変わらず変なところ見てるよね、亜矢子は。興味がない人の襟元なんか普通見ないよ」麻希子が呆れ気味に言った。
「でも亜矢子って、以外と男性を見る目があるかもよ」奈美子が亜矢子を見て言うと、亜矢子は舌を出しておどけて見せた。麻希子は、信じられない、といった表情をした。
「でも黄色いネクタイは、もういいよね。いい加減、外せって……」私はうんざりとできるだけ小さな声で言った。
「出た、亜美の毒舌」麻希子が言うと奈美子は笑った。
最初は中村の黄色いネクタイが鮮やかで新鮮に見えたが、それは普段地味なネクタイしかしていなかったからだろう。ここまで毎日――まだ三日目だが――黄色いネクタイを見ていると、いい加減目障りになった。そんな中村も奈美子に声を掛けるどころか、まったく感心がないようだった。
気にしない気にしない、と思って私は窓の外を見ようとした。
亜矢子の向こう側に座る絵美は、いつの間にかチョコレートをここぞとばかりに食べていた。道理で絵美の声が聞こえないと思ったよ。
後楽園に着くと、まず学年全体で昼食を取った。なぜか奈美子の分の昼食も用意してあり、奈美子も遠慮なく食べていた。昼食を終えると、食べ終えた順番に後楽園に入っていいことになっていたので、私達も適当に入ることにした。
後楽園の眺望は素敵だった。全体的に開けた景色を見るだけで、体の中に吸い込まれた空気が美味しく感じられる。新緑を思わせる緑色の芝生の中を流れる曲水。所々に控えめに植えられた樹木。随所にはお堂やお寺、茶屋、茶畑などが配置され、遠くには岡山城を望むことができる。
「よかったら奈美子と亜美、二人で歩きなよ」麻希子が奈美子と私を見た。
「じゃ、そうしようかな。ありがとう麻希子」奈美子が私を見たので、私も、ありがとう、と麻希子にお礼を言った。
私と奈美子は麻希子と絵美、亜矢子とは別々の方向に歩き出した。亜矢子が、じゃ、またね、と言って手を振った。
私達は曲水に導かれるように道なりに歩いた。
「亜美の元気な姿が見れてよかった。ずっと元気なのは知ってたけどね」
「私も奈美子の元気な姿が見れてよかった」
「私?元気?死んじゃったんだけど」奈美子は笑った。
私も笑ったが、笑ってもいいものなのか、と思うと微妙な感じだった。
「いいんだよ。気にしないで。亜美はいつもちょっとしたことで気にするんだから」また奈美子は私の気持ちを読み取ったらしい。
「そうかな。そんなに気にするほうでもないと思うけど……」
「亜美は、気にする人。でも、そこが亜美のいい所であり優しさでもあるの。それにしてもよかった。麻希子や絵美、亜矢子が私を受け入れてくれて」
「みんな受け入れてくれるよ」
「亜美はそうかもしれないけど、他の人は結構不安だった。私を見たときの、あの驚いた顔。こっちが驚いたよ」
「そりゃ、驚くでしょう」私が笑うと奈美子も笑った。
近くには池があった。観光客が池の周りに集まっているのが見えた。
「もっと早く、会いに来てくれればよかったのに」私は自然と池の方向に歩きだしていた。
「私だって早く会いたかったけど、ま、いろいろとあるのよ。そこんとこは、あまり聞かないで。言っちゃいけないから、としか言えないと思って」
「わかった。じゃあ、聞かない」
「でも会ったのは昨日だけど、私はずっと前から亜美のことを見てたよ。勉強、がんばってるじゃない。本当は清三中央高校の勉強内容についていけるか心配だったんだから」
「えっ。ひどい。でも私も心配だった」私は苦笑した。「私、奈美子に教わった通りに勉強して、大学を卒業したらいっぱい働くよ。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の倫理』だよね」
「お、すごい。憶えてるじゃん」奈美子は感嘆したようだった。
「私、プロテスタントとか資本主義のこととか、あまりわからないけど、勉強することは大切だと思うの。最近、いろいろな勉強や経験をすると自分が磨かれる感じがする。だから学校で習うこと以外にも、いろいろ勉強したり、いろいろな綺麗な物を見たりしてるの。倉敷美観地区で奈美子と麻希子が民芸品を熱心に見ていたでしょ?あれを見たとき、やっぱり優れた人は無意識的にああゆうことをするのかな、と思った」
「民芸品、よかったよ」
「うん、よかった。いろいろ勉強して、美しい物をたくさん見ると、美しくなるのがわかったきた。外見じゃなくて、内面の美しさって言うのかな?そして、内面の美しさを持った人こそが、魅力ある人だってわかった。だから大学を卒業したら、いっぱい仕事もする。たぶん真面目に仕事すれば、自分のためにもなるし、世の中のためにもなると思うから……」
「禁欲なまでに?」
「ええと、禁欲なまで働けるかは、わからないけど……」私の困り果てた表情を見て奈美子は笑った。
「亜美、最高。やっぱり亜美は私の思った通り素敵な女性だ。今でも、とても賢くて魅力あるよ」
「ありがとう奈美子。そう言って貰えると嬉しい。私って、ちょっと天然入っているように見られるから……」
「そう見える人こそ、結構賢かったりするんだよね。亜矢子もそのタイプかも」
「亜矢子が?そんなものかな……」私は亜矢子の性格を思い返した。
観光客のほとんどが、池の中を覗きこんでいた。きっと鯉でもいるのだろう。
「亜美、恋してる?」また私の心の中を覗き込んだのか(コイ繋がりだから)奈美子が尋ねてきた。
「今のところしてないな。いい人いないんだもん」
「女性は恋をすると魅力が出てくる人もいるんだよ。その逆もいるけどね」
「いるいる。芸能人とか結構多いよね」
「でも賢い人は、恋愛についても深く考え、自分なりの幸せをつかむもんだよ。たとえささやかな幸せでも、自分なりの幸せをね」
「うん。好きな人ができたら考えることにする」
「そうだね。多く恋愛すれば幸せになれるとも限らないしね」
「そう、その通りだよ。だから、まだいいの」私の言葉に奈美子は笑った。
私と奈美子は池に面した茶室まできた。茶室は清三中央高校の生徒を含む観光客が数人いた。その中に同じ高校の制服を着た一組のカップルが茶室の長椅子に座っていた。そのカップルは人目も憚らず、男子生徒が女子生徒の肩を抱いていた。
「あ、淳(あつし)だ。そっか、同じ高校に進学したんだった」肩を抱かれている女子生徒を奈美子を見た。
「うん。そうだね……。行こう」
「いいよ、気にしなくて。もう終ったことだし、忘れてたし、私の葬儀に来なかったことも知ってるし」
「うん。淳、葬儀に来なかったと思う。そんな奴だよ」私は奈美子を連れて茶室から離れることにした。
私と奈美子は無言で曲水沿いを歩いた。
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