第3話:無口な守り人、リースとの邂逅
ある日の午後。
彼女は、果樹園へ向かっていた。
陽光が葉の間から差し込み、きらきらと輝く。
道の脇には、野花が咲き乱れ、甘い香りが漂う。
鳥のさえずりが、どこまでも穏やかに響く。
収穫の手伝いをするためだった。
村人から聞いた話では、最近、新しい実りが。
豊かに実っているという。
足元には、柔らかい土の感触。
都会のアスファルトとは、まるで違う。
広がる果樹園は、静寂に包まれていた。
リンゴの木々が、規則正しく並ぶ。
真っ赤な実が、たわわに枝から垂れ下がっている。
風が吹くと、葉が「サラサラ」と音を立てる。
彼女は、その光景に見入った。
木の下で、誰かが作業している。
背の高い男性の姿。
黒髪が、風に静かに揺れている。
鍛えられた肩のライン。
背筋を伸ばした、自然な佇まい。
「……誰だろう?」
彼女は、小さく呟いた。
近づくと、土と木の匂いがする。
汗の混じった、素朴な匂いだ。
彼の纏う空気が、どこか澄んでいる。
作業に集中しているのだろう。
彼女の存在に、気づいていないようだった。
彼女は、彼に近づく。
「あの、手伝いに来たのですが……」
声をかけると、男性はゆっくりと振り返った。
深い森のような、静かで力強い瞳。
吸い込まれそうなほど、深い色だ。
その視線が、彼女に注がれる。
一瞬、息を呑む。
彼の顔は、整っている。
紛れもない、イケメンだ。
しかし、表情はほとんど変わらない。
無口な人なのだろうか。
彼は、何も言わず、彼女の目の前に。
リンゴがたわわに実った枝を、そっと手繰り寄せた。
「あ、ありがとうございます」
彼女は、慌ててリンゴを受け取る。
指先が、かすかに触れ合う。
彼の手は、節くれ立っていて、温かい。
そこから伝わる、確かな温もり。
彼女は、はっとしたように、彼を見た。
彼の瞳は、何も語らない。
ただ、静かに彼女を見つめている。
言葉は交わされないが、不思議と心地よい。
都会の張り詰めた沈黙とは、まるで違う。
この「間」は、安らぎを与えてくれる。
彼女は、穏やかな表情でリースを見つめる。
心の中で、安堵の息をついた。
彼が無言で、次の枝を差し出す。
彼女は、黙ってリンゴを採っていく。
二人の間に、静かな共同作業が始まった。
彼は、彼女が届かない高い場所の実を。
黙って採って、差し出してくれた。
時折、彼女がバランスを崩しそうになると。
彼は、さっと手を差し伸べた。
腕が、彼女の背中に触れる。
その手の温もりが、心地よかった。
彼の身体の輪郭が、近くに感じられる。
その度に、彼女の頬が微かに染まった。
彼は、その変化に気づいているのだろうか。
それとも、ただの気遣いなのだろうか。
彼からは、一切の感情が読み取れない。
しかし、その行動一つ一つに。
朴訥とした、確かな優しさを感じた。
夕方になり、収穫が終わる頃。
籠いっぱいのリンゴが並ぶ。
彼女は、彼に深々と頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました。
お一人では、大変だったでしょう?」
彼は、何も言わない。
ただ、首を微かに横に振った。
そして、彼女の顔をじっと見つめる。
次の瞬間。
彼の口元が、ほんの少しだけ。
「フッ」と、微笑んだように見えた。
それは、本当に微かな、一瞬の笑み。
だが、彼女は、その笑みを見逃さなかった。
大きく目を見開く。
心臓が、ドクリ、と鳴った。
彼の、そんな表情を、想像していなかった。
不意打ちだった。
彼女の頬が、一気に熱くなる。
思わず、視線を逸らした。
胸の奥で、甘い痛みが走る。
心が、きゅっと締め付けられるようだった。
「あの……」
彼女は、何か言おうとしたが。
言葉が出てこない。
焦る自分に、戸惑う。
彼は、もう元の無表情に戻っていた。
しかし、その残像は、彼女の心に焼き付いた。
その日、小屋に戻ってからも。
彼女の頭の中には、彼の笑顔が離れなかった。
無口で、少し不器用な彼。
けれど、時折見せる優しい笑み。
そのギャップに、彼女は心を奪われていた。
彼の名は、リース。
村人から教えてもらった。
彼は、果樹園の世話をしているらしい。
村の端にある、小さな小屋に住んでいるという。
次の日も、彼女は畑仕事の合間を縫って。
果樹園へ足を運んだ。
彼に会えるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて。
遠くから、彼の姿が見えた。
黙々と作業する、彼の背中。
彼女は、そっと近づいていく。
「リースさん、こんにちは」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返る。
やはり、表情は変わらない。
「…こんにちは」
その声は、低く、少し掠れている。
しかし、温かみを感じた。
「今日は、何かお手伝いできることは?」
彼女が尋ねると、彼は少し考えているようだった。
そして、手招きをした。
彼女は、彼の隣に並ぶ。
二人で、黙々と作業する時間。
リンゴの甘い香りが、あたりに漂う。
鳥のさえずりが、遠くで聞こえる。
風が、そっと彼女の髪を揺らす。
彼は、無言で、彼女が採りやすいように。
枝を低く傾けてくれた。
その細やかな気遣いに、彼女は胸が温かくなる。
言葉は少ないけれど、伝わってくる優しさ。
それが、彼女の心を少しずつ溶かしていく。
都会で失っていた、心の潤い。
それが、リースとの交流によって。
ゆっくりと、満たされていくようだった。
彼の存在が、彼女の中で大きくなる。
この穏やかな箱庭で。
彼女は、初めて心を惹かれる相手と出会った。
それが、リースだった。
彼の無口さも、今では魅力の一つ。
多くを語らずとも、分かり合える。
そんな予感が、彼女の胸にはあった。
夕暮れ時。
西の空が、茜色に染まる。
リンゴの木々が、シルエットになる。
リースが、彼女に小さなリンゴを差し出した。
「……これ、君に」
彼が、初めて自ら言葉を紡いだ。
その声に、彼女は驚き、そして感動した。
「え……いいんですか?」
彼女が尋ねると、彼は無言で頷いた。
そのリンゴは、他のリンゴより。
少し形がいびつで、小さかった。
けれど、彼女にとっては、何よりも。
尊い贈り物に思えた。
「ありがとうございます……!」
彼女は、両手でそっとリンゴを受け取った。
ずっしりと、重みがある。
彼の、温かい掌の感触が、まだ残っているようだった。
林檎を抱きしめるように、胸元に抱えた。
彼女の瞳が、きらきらと輝いている。
リースは、そんな彼女を、ただ静かに見つめていた。
その視線は、優しい。
そして、微かに、彼の口元が緩んだ。
彼女は、思わず、彼の顔を見上げた。
そこには、先日のような、一瞬の笑み。
それは、彼女だけの、特別なもの。
そう、感じた。
胸の奥が、温かいもので満たされる。
この場所で、リースという存在が。
彼女の心に、新たな光を灯し始めていた。
この出会いは、きっと、彼女にとって。
かけがえのないものになるだろう。
完璧な箱庭で、育まれる、静かな恋の予感。
それは、都会の喧騒とは無縁の。
純粋で、穏やかな、愛の始まりだった。
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