第2話:畑と土の温もり、そして小さな発見
小屋の隣、彼女は鍬を握った。
節くれだった木目が、手に馴染む。
ざくり、ざくり、と。
鈍い音がして、黒々とした土が持ち上がる。
その感触は、都会のコンクリートとは違う。
生きたものの、確かな重みだった。
指先から腕へ、微かな振動が伝わる。
体全体が、心地よく刺激される感覚。
日差しは柔らかく、頬を撫でる。
風はどこまでも澄んでいる。
土を掘り返すたびに、鼻腔をくすぐる。
豊かで、温かい土の匂いがした。
深く、息を吸い込む。
都会の排気ガスとは、無縁の香り。
生命の香りを、全身で味わう。
彼女は、ゆっくりと息を吐き出した。
種を蒔く。小さな、小さな粒だ。
手のひらに載せると、凹凸が指をくすぐる。
土の上に、そっと丁寧に置く。
優しく、土を被せる。
その一つ一つの動作に、集中した。
まるで、失われた何かを取り戻すように。
ジョウロから、水を注ぐ。
ざあっと、土が水を吸い込む音が響く。
「ごくり」と、喉を鳴らすように。
水を含んだ土から、ふわりと立ち上る。
温かい蒸気。それは、土が呼吸しているかのよう。
彼女の心にも、温かさがじんわりと広がる。
太陽の光が、全身を包む。
作物は、ぐんぐん育っていく。
彼女は毎日、芽吹いたばかりの双葉を見た。
次に、葉が開き始めた小さな株。
やがて、実をつけ始めた野菜たちを。
飽きることなく、じっと眺めた。
彼らが太陽の恵みを吸収し、力強く育つ。
その姿は、かつての彼女と重なって見えた。
疲弊しきっていた、自分自身の姿。
収穫の時が来た。
瑞々しいキュウリが、つるから垂れる。
真っ赤なトマトが、陽光に輝く。
土のついたジャガイモを、掘り出す。
両手に抱えきれないほどの野菜。
ずっしりとした重みが、確かな達成感。
泥の匂いを嗅ぐ。
それは決して不快ではない。生命の証。
採れたてのトマトを、そのままかじった。
弾けるような瑞々しさ。
太陽をたっぷり浴びた、甘酸っぱさ。
口いっぱいに、味が広がる。
その瞬間、彼女の顔に満面の笑みが浮かんだ。
それは、都会では見せることのなかった。
心からの、偽りのない笑顔だった。
彼女は、以前よりも格段に活発になった。
小屋に閉じこもりがちだった日々は終わる。
村へと、足を運ぶことが増えた。
村の入り口にある、小さなパン屋。
焼きたてのパンの、香ばしい匂いが漂う。
思わず、立ち止まる。
店先の棚には、様々な種類のパン。
どれも、完璧な形をしている。
一つとして歪んだものも、焦げすぎたものもない。
大きさも、均一だ。
彼女は、パンの棚をじっと見つめた。
一つ手に取ってみる。
ずっしりとした重み。
匂いを確かめるように、鼻を近づける。
「不思議ね……」
彼女は、小さく呟いた。
村人との交流も始まった。
道ですれ違うたび、笑顔で挨拶を交わす。
畑で採れたての野菜を、村人に差し出す。
彼らはにこやかに受け取り、代わりにくれた。
手作りの素朴なパン。
甘酸っぱいジャム。
物々交換は、彼女にとって新鮮な驚き。
そして、温かい時間だった。
畑仕事で困っていると、すぐに村人が現れる。
手を差し伸べてくれる。
その手のひらは、土に慣れた温かい感触。
彼女が感謝の言葉を伝えると。
村人たちは、屈託のない笑顔を返してくれた。
その笑顔は、彼女の心の奥に染み渡る。
彼女は以前よりも活発に村に出るようになった。
村人たちと、言葉を交わす場面も増えた。
村の中心部には、広々とした広場がある。
日中は、子供たちが楽しそうに走り回る。
その無邪気な声が、村に響き渡る。
彼女は、その声にそっと耳を傾けた。
広場の一角には、きらきらと輝く泉。
水面はどこまでも澄み、太陽の光を反射する。
水汲みをする村人。
洗濯をする村人。
広場で談笑する村人。
誰もが、穏やかな表情をしている。
争いも、諍いも、怒鳴り声も、一切ない。
まるで、絵本の中に描かれたような。
完璧な世界。彼女は、ふとそう考えた。
村の建物は、木と石で造られている。
どれも素朴で、温かみが感じられる。
煙突からは、白い煙がゆらゆらと立ち上る。
薪が燃える、パチパチという音が聞こえる。
夕食の準備をする、食欲をそそる匂い。
村中に、それが漂う。
遠くで動物の鳴き声が、のどかに響く。
全てが、心地よかった。
彼女の顔に、血色が戻ってきた。
目の下のクマは、すっかり薄れている。
常に沈んでいた表情は、穏やかに和らいだ。
深いため息をつくことも、もうない。
食事も、以前よりずっと美味しく感じる。
残すことなく、平らげるようになった。
夜は、まるで泥のようにぐっすり眠れる。
夢も見ない、深い眠り。
彼女は、ゆっくりと変わっていく。
しかし、その変化は、確実に。
この名もなき箱庭で。
土の温もりに触れて。
人々の優しさに触れて。
心と体が、再生していく。
それはまるで、長年の干ばつで乾ききった大地に。
恵みの雨が降り注ぎ、新たな生命の芽が。
静かに息吹いていくようだった。
時折、彼女は空を見上げる。
どこまでも青い空。
白い雲が、ゆっくりと形を変えながら流れる。
彼女は、その雲の動きを、心ゆくまで見入った。
かつて都会で感じていた、焦燥感はもうない。
常に何かに追われるような感覚は、消えた。
ただ、穏やかな時間が流れるだけ。
この世界は、まるで時間が止まっているようだ。
何もかもが、理想的すぎるほどに完璧。
泉のほとりで、彼女は足を休ませた。
水面に映る、自分の顔をじっと見つめる。
そこには、以前の疲弊しきった表情はない。
代わりに、穏やかで満ち足りた笑顔が浮かぶ。
「私…笑ってる…」
彼女は、小さく呟いた。
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
そっと水面に指先で触れる。
波紋がゆっくりと、しかし確かに広がっていく。
それは、彼女の心の奥底で起きている。
静かな変化を表しているようだった。
この箱庭で、彼女は「今」を生きている。
過去のしがらみから、完全に解き放たれて。
未来への不安も、ここには存在しない。
ただ、目の前の土と、空と、人々。
そして、彼女自身の鼓動だけがある。
それが、何よりも尊いことだと、彼女は知っていた。
夕暮れ時。西の空が、深みのある茜色に染まる。
空と地平線の境目が、曖昧になった。
柔らかな光が、畑の作物に降り注ぐ。
収穫したばかりの野菜を抱え。
彼女は小屋へと戻っていく。
その背中からは、今日一日の充実感。
そして、明日への静かな期待が滲み出ていた。
この完璧すぎるほどに満たされた日々。
そこには、何の陰りもない。
少なくとも、彼女が知る限りは。
しかし、彼女の視線が、時折、捉えた。
村人たちの、常に変わらない穏やかな表情。
いつも同じ時間に、同じ場所で。
同じ行動をしている村人の姿。
そこに、ほんのわずかな疑問の色が宿った。
彼女は、ふと立ち止まって周囲をゆっくり見回す。
そして、首を微かに傾げた。
まるで、誰かが用意した舞台装置のように完璧。
でも、どこか現実離れしている――。
そんな言葉が、彼女の心の奥で。
まだ漠然とした形で、渦巻いているのだった。
パン屋の棚に並ぶ、焼きたてのパン。
いつ見ても、全く同じ焼き色。
焦げ目一つない、完璧な均一性。
手に取った時の、不思議な軽さ。
「まるで、おもちゃみたい……」
彼女は、心の隅でそう感じていた。
村人たちの会話も、どこか穏やかすぎる。
大きな声で笑う者もいなければ。
不平不満を口にする者もいない。
誰もが、常に笑顔を浮かべている。
その笑顔が、時に貼り付けられたように見える。
彼女は、ふと村人たちの目を見つめた。
そこに、深い感情の揺らぎは、見当たらない。
彼らの瞳は、どこまでも澄んでいて。
まるで、鏡のように何をも映さない。
そんな印象を、受けることがあった。
村には、病気の者が一人もいなかった。
季節の移り変わりも、不自然なほど規則的。
嵐も、干ばつも、飢饉も、一度もない。
常に、穏やかな気候が続く。
畑の作物は、いつも豊作だ。
自然の摂理を超えた、完璧さ。
彼女は、ある日、泉の水をすくった。
澄み切った水面は、底まで見通せるほど。
手を浸すと、ひんやりと冷たい。
その冷たさが、なぜか人工的に感じられた。
まるで、誰かが温度を調整しているかのように。
彼女は、泉の水を、じっと見つめる。
自分の顔が、はっきりと映る。
その瞳に、微かな迷いの色が宿る。
この完璧な世界は、本当に本物なのか。
そんな疑問が、心の奥底で膨らんでいく。
しかし、その疑問は、すぐに消え去る。
村人の優しい笑顔。
リースの温かい手。
畑で育つ、生命の輝き。
それらが、彼女の心を再び満たしていく。
彼女は、自分に言い聞かせる。
「考えすぎよ。ここは、ただ平和なだけ。」
「私が、これまで知らなかった、本当の場所なの。」
そう信じることで、心はまた安堵する。
夕焼け空の下、小屋へ戻る道すがら。
彼女は、村の風景を、改めて眺めた。
家々の灯りが、暖かく瞬く。
遠くから聞こえる、村人の歌声。
全てが、優しさに満ちている。
この幸福が、いつまでも続くように。
そう、心から願った。
彼女は、まだ知らない。
この完璧な箱庭が、誰かの手によって。
入念に「調整」されていることを。
そして、その調整が、彼女のために行われていることを。
彼女の物語は、まだ始まったばかり。
この世界の真実を知るには、もう少し時間が必要だ。
しかし、その兆候は、もう現れている。
彼女の心の中に、静かに。
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