蓮の庭 ~あなたの過去を書き換えます~

蓮宮 綾乃

第1章 蓮の庭へようこそ 1話 本当の自分を生きる

綺麗な薄いピンクのセロファンに包まれたガーベラやバラの花束を見つめて

アヤは通いなれた駅までの歩道で一瞬立ち止まり、深呼吸をした。


本日アヤは13年勤めた病院を退職した。

医療秘書という仕事に不満があったわけじゃない、

同僚も上司もまあ色々いたけど、そんなことなら誤魔化せただろう。


責任とか、誠実とか、地に足をつけるとか、社会人としてとか、我慢とか、

そんな色を上から塗り重ねどこまでも誤魔化せただろう。


でも、あの日、医局を出て廊下を歩いていると、背後から声がした。


―本当の自分を生きなさい、本当の自分に戻りなさい―


本当の自分?アヤは振り向いた。

けれどそこには誰の姿もなかった。


ふと、おばあちゃんが生前アヤにいった言葉を思い出した。

「好きって気持ちをあなどっちゃいかんよ」


おばあちゃんは癌だった。病室で、学校の帰りお見舞いに来た高校生のアヤにふいにそういった。


「好きって気持ちは本当の自分に繋がる唯一の手掛かりなんよ、

本当の自分を開く鍵なんさ。

大人になったら、みんな好きよりも、頭で考えることばっーかり優先してしまうけど、アヤは忘れちゃいかんよ。仕事でも、人でも、ぜーんぶ、自分の好きを信じることが何より大事だ」


おばあちゃんは皴だらけの小さなでアヤの頭を撫でながら

「アヤ、あんたは自分の好きを生きるって信じてる、ばあばは知ってる」

そしてこう付け加えた。


―好きって気持ちは無敵で最強なんよ、それは人も助ける、そして自分もね―


空耳のようなものだ、そう思ったし、とるにたらないことに感じた、その時は。


でも、おばあちゃんの言葉と、そしてふいに聞こえたあの声は、

アヤの中で命を持ち始めた。鼓動し、熱を帯び、疼き、蠢いて、

そしてアヤを導き始めた。


どうしてだろう、でもどうしてもだった。

あの声を忘れることは出来なかった。

あの声をなかったことには出来なかった。

おばあちゃんの言葉も。


本当の自分、それはどんな自分だろう。


そして、そう思った時点で、アヤは苦く笑うしかなかった。


クエスチョンを感じてしまったら、それは戻らなければならない自分がいる事を肯定することに繋がる。

それに気がついてしまったら、もう気がつかないふりをしている自分には還れない。


人によってはなんて愚かな選択と思うかもしれない、実際上司にはそういわれた。


でもアヤにとっては尊い致命傷だった。

そんな尊いものを見て見ぬふりは出来なかった。


そして今日に至る。


アヤは呟く、


「あなたもそう思いませんか?これは尊い選択ですよね」

これを今見ている画面の向こうにいるあなたにも敬意を込めてこの言葉を投げかけてみる。


さあ、帰ろう、今日はこのまま一人暮らしのマンションではなく、

電車で1時間の実家に戻る予定だ。


アヤはまた歩き始める。通い慣れたその道を、その歩みを綺麗な夕日が照らす。


その時だった。

向かいから歩いてくる小さな男の子の手を離れ風船がふわりと空に舞い上がった。

男の子は風船に気を取られて歩道を外れ、車道へ飛び出した。


同時にアヤは目の端に直進してくる車も捉えていた。


「あぶない」


よくわからないけれど、地面が近い、痛みというより硬くて冷たくて寒い。

遠くで誰かの声がする。男の子の激しい泣き声も。


よかった、助かったのね、元気な泣き声だわ。


「女の人が轢かれたぞ」

ザワザワとする人々の声と気配。


アヤは心の中で思う。


今日は私の退職日で、今日はこのまま実家に帰る予定で、

そしてお母さんが私の好きな海老フライを揚げて待っていてくれるっていったのに、

私死ぬのかな、少し怖いな。

考えたら、彼氏もなく、もちろん結婚もしてなくて、おまけに今日仕事まで失って、

何も持ってないし、何者でもないまま、このまま死んでいくんだ。


―自分のことを信じろよ―


あの日、正道が部屋を出る前にそういった。


本当は行かないでって、ずっと傍にいてって、あなたを愛してるって、

そういいたかったのに。

あの日些細な行き違いにアヤは逆上し、本心とは真逆の取り返しのつかない言葉を口にした。


―もう終わりにしたい―


過去は変えられない、でももしもあの日に帰れたら、

もっと正道とちゃんと話をするだろう。

正直に素直になるだろう。


そして本当の気持ちを伝えるだろう、本当はあなただけを愛していると。


遠くでカラスが鳴いてる。


誰かがアヤの体を抱きかかえてくれた。


「ねえ、お願い、正道に伝えて、アヤが正道を愛してるって、出会ってから、死んでいく今の今まであなただけを愛してたって、どうか・・お願い」

消えゆく意識の中で、今はもうどこにいるのかさえわからない、でもアヤの中でしっかりと生き続けている木村正道を想いアヤはそう呟いた。


そう、これが、本当の自分だ。


ずっと自分の気持ちに蓋をして生きてきた。決めたことだから、忘れなければ、と。

でも正道といる時、正道と生きる時、そして正道を想う時、

私はいつも本当の真実の自分だった、そうアヤの中のアヤが叫んでいた。


もう怖くない、本当の自分で死んでいけるのなら、本望だ、アヤはそう思った。


次の瞬間、アヤの体をカラスが足でぐわっと掴み空へと舞い上がった。

アヤは冷静に、そっか、お迎えは天使じゃなくてカラスさんなのね、

死ぬってこんな感じで空飛んじゃうんだ、と思っていた。


地上の海の香りと森の湿った匂いを遠くに感じながら、アヤはカラスと共に空を飛んでいた。


地球は美しかった、こんな風に空を飛んで、そしてこのまま天国にいくのね、うんうん。

風が温かく優しい。アヤはすべてを受け入れるように深く深く瞳を閉じた。


「あのさ、感傷にふけってるとこ申し訳ないけど、おまえ死んでないからな」

アヤの体をしっかりと掴んだままカラスがそういった。

「ええっ、てか、じゃあどこに行くんですか」


驚いた。天国まで連れて行ってくれるカラス天使ではないらしい。

しかも今喋った?


カラスはアヤの質問には答えず、スンとすましたままカラスらしくカーと鳴いて、

そのまま急降下した。


まるでお伽話に出てくるような小さな白い洋館の前に、カラスは舞い降り、

そこでアヤの体をどんと離した。

「ひゃーいたた」


地面に降ろされたので、そういいながらゆっくり上半身を起こすと、

そのお伽話のような鱗屋根の家の庭には池があり、一面の薄ピンクの蓮が咲き誇っているのがアヤの目に入った。


「わあ、とても綺麗」

アヤが思わずそう感嘆の声をあげると、


「おかえり、ご苦労さん」

綺麗な浅黒い肌の女性が腕組みをしてカラスにそういい、そしてアヤを凝視していた。


中近東の女性のような風貌だが、きちんと日本語は通じるようだ。

「まったくこんなことってあるのかしら」

その女性がアヤを見ながら困惑した顔でそう呟いた。


小さな目の赤い可愛い白い狐が二匹、女性の後ろからアヤのもとにやってきて、

地面に座り込んでいるアヤに

「おかえり、アヤ、本当にもどってきたよ、わーい」

といい、

もう一匹もアヤの腕の中に飛び込んできた。


「わーい、アヤおかえり、サーンもムンもよいこにしてたよ」

小さな温かい生き物の無邪気な気配をちゃんと感じる。

不思議この子たちもお喋りできるのね、とアヤは思う。


そしてこの子たちはなぜかアヤを知っているようだ。

「ここはあの、天国ではないんでしょうか?」

アヤがその女性にそう尋ねると、

「神聖な場所ではあるけれど、天国ではないわ」


「あの、ここに連れてこられると時、カラスさんが、私は死んでないって」

女性は眉を上げて

「そうね、死んではいないわ、ただこれまでの世界に残してきた肉体は眠り姫のような状態、というところかしらね」

とそう答えた。


「ちなみにカラスの名は、トトよ、その二匹は双子の狐でサーンとムン、彼らは私の大切な家族」


それから一つ大きな溜息をついて、唇をぎゅっと結び、何かを決意したように頷いた。


「ああ、仕方ない、これが天の意向ね、わかったわ、私も覚悟した。

ここじゃあなんだから、家の中へどうぞ、ちゃんとすべて話してあげる」


そういって、地面に座り込んだままのアヤに手を差し伸べた。

「私の名前はシュラよ、ああ、自己紹介は結構よ、あなたの名前はもう知ってるから」


アヤは差し出されたシュラの手を掴みながら思った。


今日はアヤの退職日だった。終わりの日だった。でも、

でも同時になにかが始まった日なのだと。


そう始まりの日なのだと。















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