第2話 死者の名を、刻む者
戦の翌朝、霧の中に、いくつもの人影が揺れていた。
それは兵ではない。
傷を負いながらも、仲間の亡骸を運び、地面に並べている男たちの列だった。
オズベルもまた、その一人だった。
左肩の鎧は割れ、脇腹には薄く裂傷が走っていたが、それでも歩けた。
歩ける以上は、生きているということだった。
戦の最中に倒れた仲間の一人――名も知らぬ新兵の亡骸を担ぎ、野営地の端へ運ぶ。
泥に塗れ、顔の原形もわからないその身体を、丁寧に下ろした。
「……名前、知ってるか?」
横にいたユーグが、小声で聞いた。
まだ顔には若さが残っている。
片足を引きずりながらも、しっかりと手を動かしていた。
「いや……見たこともない」
オズベルは首を振った。
徴集のときに合流したどこかの村の若者だろう。
斃れたときの姿すら、覚えていない。
だが、同じ戦場に立ち、剣を交えた“仲間”だった。
「……誰かが、名前を刻まなきゃな」
ユーグが地面を見つめながら言った。
そこには粗末な十字の木片が刺さり、誰かがナイフで無理やり文字を刻みかけていた。
だが、血に濡れ、湿った木では文字も定かに見えない。
オズベルは腰の袋から父の小刀を取り出すと、無言でそれを受け継いだ。
「R.T.」――革袋に縫い付けられていた布切れにそう記されていたのを、オズベルは思い出していた。
たったそれだけでも、名の片鱗だ。
それだけでも――刻んでおこうと思った。
刃が木を削る音だけが、静かに響いた。
***
その夜、オズベルたちは壊れた村の納屋で身を寄せていた。
戦は一段落したものの、次の交戦がいつ始まるかわからない。
衛兵は疲れ切った兵士たちを無理やり詰め込み、数人ずつ交代で寝かせていた。
「……あのとき、オズが前に出なきゃ、俺も死んでたかもな」
ロイがぼそりと漏らした。
肩には切り傷があり、血止めの布が黒ずんでいる。
「オズは、でけぇしな。あの振り方、もう“兵士”だったぞ」
ユーグが笑って言った。
冗談のようでいて、どこか真剣な声音だった。
「槍は、突くだけじゃ駄目らしい」
オズベルが低く呟いた。
手に残った感触が、いまだ消えない。
突き、振り、押しのけ、捻じ伏せる。
そのすべてが、殺すための動きだった。
「……知らなかった。槍って、技術が要るんだな」
「それでも、お前はやったんだろ。助けたんだ」
ノルトが口を開く。
寡黙な男だが、その目は真っすぐだった。
オズベルは何も答えず、父の槍を見つめた。
今では刃に泥と血がこびりつき、柄の革は一部が裂けていた。
それでも、その槍が――命を繋いだ。
***
翌朝、隊長が新兵たちを集めた。
「名簿に載ってる兵のうち、生存者の名を確認する。名を呼ばれたら返事をしろ。……返事がなけりゃ、死んだものと見なす」
その声は平坦で、冷たいものだった。
まるで“兵士”ではなく、“物”を確認しているかのように。
オズベルたちの班では、三人が名を呼ばれても返事をしなかった。
そのひとりが、昨日オズベルが刻んだ「R.T.」の男だった。
刻まれた木の十字が、いまも霧に濡れて立っている。
***
その日の夜、オズベルは再び火の前に座っていた。
焚き火の灯りが、槍の刃を照らしていた。
――父の言葉が、また蘇る。
「まっすぐ突け。人でも、獣でも、迷わずにな」
だが今のオズベルは、まっすぐ突くために“何か”が要ると知った。
力ではなく、恐怖でもなく、意思――。
そうでなければ、誰も救えない。
だからこそ、もう一度、柄を握った。
火にかざされたその槍は、泥を拭われ、再び鉄の輝きを取り戻していた。
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