我が槍、まだ名を持たず
TAORU
第1章:従士への道
第1話 折れぬ槍の重さ
東の空が白みはじめたころ、オズベルは村の外れに立っていた。
朝露に濡れた畑の土は重く、草葉は静かに風にそよいでいた。
夜が明ければ、彼は もうこの村にはいない。
誰かが見送ってくれるわけでもない。だが、それを寂しいとは思わなかった。
三男は土地を継げず、学もなく、腕っぷしだけが頼りとあらば、あとは戦場で名を上げるか、骨を埋めるかのどちらかだ。
それでも、ここを出るまでの数日は騒がしかった。
徴兵官が村に来たのは、五日前のことだった。
馬に乗った二人の軍吏が、村長の家に立ち寄り、しばらく何やら話し込んでいたかと思えば、その日の夕刻には広場に人が集められていた。
「領主殿より御触れあり。今回の戦に際し、この村より男子五名を差し出すこと。年十五以上二十未満、力強く、骨格しっかりした者を選べ」
そう軍吏の一人が高らかに読み上げると、村の空気が静かに沈んだ。
誰もが予想していたことだったが、いざ言葉にされると、胃の奥がひやりとするような感覚に襲われる。
選ばれたのは、オズベルを含む五人。
いずれも農作業で鍛えられた若者たちで、長男は除かれ、次男・三男が多かった。
オズベルは特に背が高く、年のわりに腕も太かったから、名を呼ばれるのも時間の問題だった。
名を読み上げられても、誰も抗議しなかった。
村では昔から、領主の命には従うものと決まっていた。口を開いて損をするのは、いつも弱い者だったからだ。
その日の夜、オズベルは家の裏にある倉で、古い布包みを取り出した。
中には、油紙で包まれた槍が一本。
父が鍛冶場でこっそり仕上げたそれは、使い込まれていないぶん鋼の刃がまだ鈍く光っていた。
柄には黒い革が巻かれ、手元には削れた痕もない。鍛えられた刃はかつて農具を打つ父の手の跡を残している。
生前の父は口数の少ない男だったが、この槍を渡すときだけはこう言った。
「まっすぐ突け。人でも、獣でも、迷わずにな」
それだけの言葉だったが、オズベルにとっては十分だった。
そして五日後の朝――。
村の外れに立った彼の背には、その槍があった。
鉄刃の反りが、昇りかけた朝日を反射して微かに赤く光っていた。
村人たちが集まっていたわけではないが、同じく徴兵された若者たち――ロイ、ハンメル、ノルト、ユーグの四人が、広場で待っていた。
皆、畑の泥が染みたままの粗末な服を着ていたが、どこか顔つきが引き締まっていた。
これから行くのは“戦場”なのだという実感が、五人の間で共有されていた。
ロイは鍬のような大槍を担ぎ、ハンメルは家の薪割り用の斧を肩にかけていた。ノルトは兄の古びた革鎧を着込み、ユーグは母親に縫ってもらった布袋に干し肉を詰めていた。
「……遅いぞ、オズベル」
ハンメルが言った。だがその顔には笑みが浮かんでいた。
「すまん。道草を食ってた」
「弟か?」
「ああ」
簡単な言葉を交わし、五人はそれぞれに視線を交わした。誰も、これが最後になるかもしれないとは言わなかった。だが、それは皆、心の中でわかっていた。
「行こうぜ。兵糧の支給は早い者勝ちらしいぞ」
「冗談じゃない。配給だけは欠かしたくないな」
そんな軽口を交わしながら、五人は村の道を歩き出した。
誰にも見送られず。
それでも、それが“当たり前”の別れだった。
そしてオズベルの手には、父の槍があった。
まだ一滴の血も吸っていないその槍は、これから数えきれぬ命と、
幾度の戦場を越えることになる――。
道は、ただひたすらに続いていた。
村を出て二日。オズベルたち五人は、領内から徴集された他の村の若者たちと合流し、三十人ほどの隊列を成して南へ向かっていた。
先頭を歩くのは、徴兵官のクラースと名乗った男。既に軍に属して久しいらしく、身のこなしは軽く、腰には刃こぼれした短剣を差している。
「しっかり歩け、農民ども! 馬を使えるのは貴族様だけだ! 足が棒になっても進め!」
声は大きく、内容はぞんざいだった。
もっとも、彼が特別横柄なわけではない。周囲の空気が、すでにそうだった。
行軍は容赦がなかった。
雨が降ろうと風が吹こうと、日が沈むまで歩き通した。
乾パンと呼ばれる堅い糧食と、水袋に入った川の水で命を繋ぎ、野営は森の端か、村の納屋を間借りする。
夜は交代で見張りに立たされたが、誰も襲ってくる者などいなかった。
むしろ、夜の風のほうが敵のように冷たく、骨身に染みる。
「足の皮、全部剥けちまったよ……」
ユーグがそう言って座り込み、足を見せてきた。
草鞋の紐の跡が肉に食い込み、赤黒く腫れていた。
「オズ、お前、なんでそんなに平気な顔してんだよ」
「……足が太いからかもな」
自嘲気味に言うと、ロイが笑った。
「お前、それ才能だぞ。軍に向いてるんじゃねぇか?」
「だったら、もうちょいマシな槍をくれりゃいいんだけどな」
彼が担いでいるのは、父から受け継いだ槍。
他の新兵たちが倉庫で余った粗末な槍や鎌を支給されている中、それは明らかに異質だった。
それでも、まだ誰にも「それを寄こせ」と言われていない。
オズベルの体格と、無言で放たれる空気が、近寄りがたさを生んでいたのかもしれない。
そして三日目――。
ようやく目的地に着いた。
丘の上に築かれた砦、あるいは訓練場。石壁は苔むしており、木柵は崩れかけていた。
だが、広場は広く、すでに幾つもの隊列が形成され、兵士たちが整列していた。
「おう、来たな田舎者ども! こっからは“兵士”って呼ばれる立場だ!」
現れたのは、腹が出た鎧姿の男。
声がでかいことと罵声が得意なことだけは一流らしい。
新兵たちが揃って頭を下げると、男は唾を吐き、肩を回した。
「訓練ってのはな、剣を振るう練習じゃねぇ! まずは走れ、叫べ、倒れるまでだ!」
その日、彼らは昼まで駆けさせられ、午後には巨大な石を運ばされた。
夜には干し肉と硬いパンが支給され、ようやく横になれるかと思えば、見張り当番のくじ引きが始まる。
これが「兵士の訓練」なのか――。
オズベルは思わず槍の柄を見下ろした。
父が残したそれは、泥と汗にまみれ、革巻きが手に張り付いていた。
戦うことを学ぶ前に、死ぬ者が出る。
そう実感するには、さほど時間はかからなかった。
翌朝、まだ夜が明けきらぬうちに号令が響いた。
砦の中庭に新兵たちが叩き起こされ、半ば寝ぼけた顔で列をなす。
「敵襲だと!?」
「違う、前線への補充だってよ。俺たち、行軍命令出された」
「うそだろ……昨日来たばかりだぞ?」
騒ぐ声があちこちで上がるが、すぐに上官の怒号がかき消す。
オズベルたち五人も例外ではなく、装備をかき集めて広場へ駆けつけた。
父の槍を背に、革の胸当てを紐で縛る。
この日のために与えられた粗末な鎧は、動くたびにギシギシと音を立てた。
目的地は、帝国と隣国アルベルン王国の国境線に近い丘陵地帯。
既に敵兵が越境し、国境守備隊が戦闘に入っているという。
「野戦だってさ……はは、初っぱなからこれかよ」
ノルトが乾いた声で笑った。
荷車に揺られ、何度も馬糞と泥に跳ね上げられながら、兵士たちは前線の集落へ向かった。
その村は既に避難が済み、空き家と化していた。
代わりに、そこにいたのは、傷ついた兵士たちだった。
片脚を失った男、血塗れの包帯を巻く若者、目の焦点が定まらない者。
これが――戦。
オズベルは、槍の柄を強く握った。
そして午後、太鼓が鳴った。
「陣列、前へ! 第一投射隊、右翼へ展開!」
味方の隊長が叫ぶが、新兵の多くは言葉の意味すらわかっていなかった。
兵士たちは押し合い、互いに背中を突き、誰かが転ぶたびに列が乱れる。
「くそっ、前に出すぎるな、バカ!」
「槍を下げろ! 味方を突く気か!」
混乱。怒号。誰が敵か、誰が指揮しているのか、わからぬまま。
そのときだった。
敵が――現れた。
山影から突進してきたのは、青と銀の旗を掲げる騎士団。
アルベルン王国の先遣部隊だった。
その後方には、槍を構えた歩兵たちが陣を整えて進んでくる。
「来るぞ――!」
誰かが叫んだ瞬間、オズベルは突き飛ばされ、前に出た。
気づけば、敵の前衛が目の前にいた。
震える腕で槍を構え、思わず突き出す。
刃が、肉に当たった感触。
「う……うわぁあああ!」
相手は悲鳴を上げ、よろめき、倒れる。
初めての“殺し”――。頭が白くなる。
「オズベルッ!」
背後からロイの声が飛んだ。
振り返ると、ハンメルが敵兵の剣を腹に受けていた。
「……ッ、く、そが……」
膝をつきながら、それでも斧を振り回す姿は、まるで獣のようだった。
だが、次の瞬間――喉元に槍が突き立った。
「ハンメルッ!!」
オズベルが駆け寄る前に、彼の体は、泥の中に崩れ落ちた。
血が、広がっていく。
怒りと悲鳴と、そして――恐怖。
オズベルは叫んだ。
「どけええええええッ!」
大上段に構えた槍を振り回し、前にいた敵兵を吹き飛ばす。
次いで、突く。突く。突く。
狙いなど定まっていなかった。ただ、自分の体を守るために振るっていた。
それでも、敵は怯んだ。
その巨躯、振るう力、狂気に近い目――“なにか”を見たのだろう。
ふと、気づく。
自分の周囲には、まだ生き残っている者がいた。
ロイ、ユーグ、ノルト。皆、泥だらけで、必死に剣や棒を振るっていた。
だが、敵は退いていた。
「……助かったのか……?」
誰かがつぶやいた。だがそれが誰かは、もう覚えていない。
戦は続く。
だが、このとき、この戦場で――名もなき一兵卒が、最初の“一歩”を踏み出したのだった。
戦が終わったのは、太陽が沈みかけた頃だった。
敵は撤退した。味方の主力が丘を越えて駆けつけたことで、戦況が一転したらしい。
だが、新兵たちの列は、もう形を成していなかった。多くが斃れ、多くが逃げ、多くが動けなかった。
オズベルはその場に座り込んでいた。
泥に汚れた鎧の隙間から血が染み出しているのは、味方のものか、自分のものか、もう分からない。
槍の柄を両手で握りしめ、額を押しつけるようにして目を閉じる。
背後から足音が近づいてきた。
「……オズベル」
ロイの声だった。
同じく泥だらけの顔で、肩で息をしながら腰を下ろす。
「……お前、あのとき……マジで、すごかったな」
「すごくなんて、ない。……ただ、振り回しただけだ」
言葉に力はなかった。
ただ、あの瞬間、何も考えられなかった。何も選べなかった。ただ生きたくて、槍を振るっただけ。
「ハンメル……死んだな」
「ああ……死んだ」
淡々と答えながらも、心の底に沈んだものは拭えなかった。
戦場で散るとは、こういうことなのか。死ぬとは、こうもあっけないものなのか。
「アイツ、さ……ほんとは家に帰りたがってたんだ。ずっと言ってた」
「……ああ」
「妹がいたって。弟の靴直してやらなきゃって」
「……」
オズベルは何も言えなかった。
何を言えばいいのかも分からなかった。ただ、父の形見の槍を握る手に、力がこもる。
――自分は、どうして、生き残ったのか。
体格が良かったから?
槍が他のものより良かったから?
それとも、ただ運が良かっただけか。
その問いに、答えはなかった。
その夜、彼らは火のそばでじっとしていた。
斃れた者たちの遺体は、荒野の隅にまとめて積まれた。名もなく、布もかけられず、そのまま風に晒されていた。
腐臭が出る前に、誰かが火をつけるのか。それとも放置されたままか――。
オズベルはただ、その横に座り、焚き火の明かりに槍を照らしていた。
父から受け継いだそれは、今日、血を吸った。
味方のものも、敵のものも。区別などつかぬまま、命を穿った。
「……見ておけ。逃げるなよ、オズベル」
誰かの声が脳裏にこだまする。
生き残ったのは、自分だけじゃない。
だが、今日死んだ者たちの分まで、自分の手に重みが乗った――そんな気がした。
火の粉が、夜空に散っていく。
その光のひとつひとつが、誰かの命の名残のように思えた。
オズベルは目を逸らさず、それを見続けた。
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