『瑕疵(かし)のある恋人』

ぼくしっち

第1話完結

誰もが羨むような恋人。それが、私の彼氏、高槻優斗(たかつき ゆうと)だ。

 商社に勤める彼は、長身で、雑誌のモデルみたいな綺麗な顔立ちをしている。誰にでも優しくて、機転が利いて、もちろん私のことも、これ以上ないくらい大切にしてくれた。


「美咲、疲れてるでしょ。今日のご飯は俺が作るから、座ってて」

 そう言って微笑む顔は、何度見ても心臓が跳ねるくらい格好いい。

 同棲を始めて三ヶ月。優斗のいるこの部屋は、私にとって世界で一番安全な場所だった。

 ――そう、信じていた。


 最初の違和感は、本当に些細なことだった。

「そういえば美咲、高校の時って吹奏楽部だったんだよね? クラリネットやってたってすごいじゃん」

 ソファで寛ぎながら、優斗が何気なく言った。

「え? うん、そうだけど……私、そんな話したっけ?」

 彼と出会ったのは社会人になってからだ。地元の友達でもない彼が、私の高校時代を知っているはずがない。

「あれ、そうだっけ? なんか前に、美咲が話してくれたような気がして。ごめん、勘違いかな」

 彼は少し困ったように笑って、すぐにテレビに視線を戻した。

 その時は、「そんなこともあるか」と気にも留めなかった。彼の完璧さの前では、どんな小さな疑問もかき消されてしまう。


 けれど、違和感は少しずつ、でも確実に、その濃度を増していった。


 私が子供の頃に大火傷を負った、右腕の古傷。普段は長袖で隠しているそれを、彼はなぜか初めて見た時から知っていた。

「痛かっただろ。もう大丈夫だからな」

 そう言って、まるで昔から知っていたかのように優しく傷跡を撫でる彼に、言いようのない恐怖が背筋を走った。


「どうして……知ってるの?」

 震える声で尋ねると、彼は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、表情を失くした。テレビの光に照らされた瞳が、ガラス玉のように冷たく光る。

「美咲のことは、何でも知りたいから。調べたんだよ。美咲が誰にも言えないでいる、辛い過去も全部。受け止めてあげたくて」

「調べたって……何を?」

「卒業アルバム、昔のSNS、共通の知り合い……。愛してるから、全部知っておきたいんだ」

 それは、愛の言葉のはずなのに。彼の口から発せられると、まるで蜘蛛の糸のように私に絡みついて、身動きを取れなくさせる呪いのように聞こえた。


 そして、決定的な出来事が起こる。

 優斗の部屋には、一つだけ『絶対に開けてはいけない』と言われている、書斎の古いデスクの引き出しがあった。

「ここだけは、俺のプライベートなものが入ってるから。信じてくれるよな?」

 あの優しい笑顔で言われたら、頷くしかなかった。

 でも、もう限界だった。彼の留守中、私は罪悪感に苛まれながらも、その引き出しに手をかけた。鍵はかかっていない。

 ぎ、と乾いた音を立てて開いた引き出しの中にあったのは、アルバムだった。

 一冊じゃない。何冊も、何冊も。

 手に取って、表紙を開いた瞬間、私は息を呑んだ。


 そこにいたのは、私だった。

 小学生の頃の私。中学生の頃の私。高校で友達と笑っている私。大学の入学式の私。

 全てが、盗撮されたものだと一目でわかった。物陰から、建物の窓から、人混みの隙間から。執拗なまでに私だけを追い続けた写真の数々。

 ページをめくる手が震える。最後のページに貼られていたのは、一枚の集合写真だった。

 見覚えがある。小学校の卒業アルバムに載っていた、クラス写真だ。

 赤マジックで、無数のバツ印がつけられている。クラスメイト全員の顔に。

 ただ一人を除いて。

 ――私の顔には、歪んだハートマークが描かれていた。


 その隣。写真の隅っこで、暗い目をしてこちらを見ている少年がいた。

 今の優斗の面影はない。痩せて、髪が伸び放題で、いつも一人で本を読んでいた、クラスでもまったく目立たなかった子。

 そうだ。彼の名前は……確か……。


 玄関のドアが開く音がした。

「ただいま、美咲。早いだろ? 仕事が早く終わったから、ケーキでも買って帰ろうかと……」

 リビングに入ってきた優斗は、私の手にあるアルバムを見て、ぴたりと動きを止めた。

 そして、ゆっくりと、ゆっくりと、あの頃の少年と同じ、暗い、昏い笑みを浮かべた。


「ああ、見ちゃったんだ」

 声の温度が、数度下がった。

「やっと、思い出してくれた? 俺だよ、鈴木(すずき)だ。小学校の時、同じクラスだったろ」

 鈴木。そうだ、鈴木君だ。私に一度だけ告白してきて、私が「気持ち悪い」と友達に漏らしたのを、聞かれてしまった彼だ。次の日から、彼は学校に来なくなった。


「ひどいよな、美咲は。俺、あの日からずっと、美咲のことだけを考えて生きてきたのに」

 彼は一歩、私に近づく。私は後ずさる。

「だから決めたんだ。美咲に相応しい男になろうって。名前も変えて、顔も……少しだけ変えて。死ぬ気で勉強して、良い会社に入って。全部、全部、美咲のためなんだよ」

「……なんで、みんなの写真にバツが……」

「邪魔だからだよ」

 彼は、心の底から不思議そうに言った。

「美咲の周りにいる奴ら、全員邪魔なんだ。美咲の視界に入るもの、美咲の記憶に残るもの、全部、俺だけでいい。だから、少しずつ『掃除』してきたんだ。昔の友達とか、会社の同僚とか」


 ――ああ、そうか。

 最近、やけに昔の友人から連絡が来なくなったのも。

 会社で私に好意的だった先輩が、突然理由もなく退職したのも。

 全部、この男の仕業だったんだ。


「さあ、アルバムを返して。それは、俺たちの『聖書』なんだから」

 優斗が一歩踏み出した瞬間、私は我に返って玄関に向かって走り出した。

 しかし、ドアの前に回り込んだ彼に、いとも簡単に腕を掴まれる。

「どこへ行くんだよ、美咲」

 その声は、もう私が知っている優しい優斗のものではなかった。

「大丈夫。もう二度と、誰にもお前を近づけさせない。誰の記憶にも残させない。この部屋で、二人きりで、ずっと、ずーっと一緒にいよう」


 彼の完璧な笑顔が、すぐ目の前で歪む。

 その瞳の奥には、出口のない、暗くて深い瑕疵が広がっていた。

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『瑕疵(かし)のある恋人』 ぼくしっち @duplantier

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