一章『不在証明実験』

【06】幽霊学級

 部屋の温度が上がる。柔軟剤と汗の混ざった香りが鼻を通り抜ける。肌を撫でる空気には妙な湿り気がある。――間違いなく人間の気配だ。

 誰も見えないことに目を瞑ってしまえば、僕らの過ごす教室と変わらない。そこには、場違いにも日常的な空間が広がっている。


 「あ……やっぱり!」


 詩葉は後方の壁に貼られた掲示物を指す。

 学級目標が記された青色の模造紙だった。『伝える力・聴く力・信じる力 〜思いやりで繋がる二年三組〜』――内容自体はよくあるものだが、問題はクラスの名前だろう。


 「二年三組。……急になんで?」

 「クラス単位で出てくるオバケでしょ。」

 「意味わかんない。でも、チャンスか……」


 状況の理解はどうせ追いつかない。というか、怪奇現象として片付けてしまう方が早い。

 当初の目的を果たそう。元より、僕らは三組の痕跡を探るために侵入したのだ。それならば、驚いて立ち止まるより、手がかりを集めきってしまう方が賢明だ。


 「ふーん、ユイくんは怖くないの?」

 「……僕は大丈夫だから。」


 額に冷たい汗が伝っていたことに気づく。

 しかし、纏わりつく緊張を払うように、僕は教室にあるものを丁寧に漁り始める。論理とも感情ともつかない直感が、旧校舎のどこかに答えがあると告げている。今、僕は大切な場所に立っているのだ。


 「……じゃあ、手伝ってあげる。」


 詩葉は何かを言いたそうに僕の瞳を覗き込んでいたが、程なくして調査に加わった。

 机の上に置かれた教科書。教卓にある出席簿。廊下側の壁に掛けられた当番分担表。黒板の上に飾られた集合写真。――クラスの正体を示しうる情報はいくらでもあるはずだ。


 「あー、読めない!全滅!」

 「写真もダメみたい。」


 それでも、大した成果は得られなかった。

 生徒の「名前」や「顔」を含む情報が徹底的に隠匿されている。黒く塗り潰されているようにも、インクが掠れているようにも、あるいは、単に思考が邪魔されているようにも思える。僕らはこの状況に覚えがあった。


 「……欠番さんと同じだねぇ。」

 「そうだね。三組の生徒を知られたら困るのかも。」

 「それって……」


 続きを言いかけたとき――乾いた音が鳴った。

 詩葉の肩口が僅かに揺れる。ブレザーの黒い布地には、白い粉を擦りつけたような汚れが濃く浮かび上がっている。


 「痛っ、なにこれ……!」


 床にはチョークの破片が転がっていた。

 彼女の身体にぶつかったことは間違いない。音と崩れ方からして、速度はかなりのものだろう。もし、眼に当たりでもしたら大怪我は免れない。

 

 「伏せて、次も来る!」


 今度は的確に捉える。

 教卓の方から、乱暴な軌道を描きながら黄色いチョークが飛来した。詩葉が咄嗟にしゃがみこめば、それは、彼女の頭上すれすれを掠めながら、ロッカーの辺りに粉末を散らす。


 「逃げて!」


 積まれていた教科書が崩れ落ちる。黒板消しが浮遊する。椅子の脚が床を引っ掻く。机は横倒しにされる。

 飛来物はチョークに留まらない。消しゴム。ノート。シャープペンシル。筆箱。コンパス。定規。――教室という空間の全てが詩葉に牙を剥く。


 彼女は目を見開いたまま壁際へと後退していく。

 狙いは冷酷に思えるほど正確だった。最初に小物が無作為に暴れ、逃げ道が狭められたところで、重たい机が真っ直ぐに飛ぶ。

 目論見に気づいた彼女は、前者に当たることを厭わない代わりに、後者を確実に避けようとしていた。堅実な選択ではあるが、それで、長く態勢を保てるはずもない。


 「ああっ……」


 案の定、詩葉は散らかる筆箱に足を取られた。

 知性ある暴力は生まれた隙を決して逃さない。躓いた彼女の前で、木製の椅子が勢いよく持ち上げられ――。


 「……コトちゃん!」


 僕はその頭蓋が割られるより先に踏み込んだ。

 そして、力の限り振り抜いたのは――教室の壁に立てかけられていた一本のテニスラケット。シャフトの部分には上品な羽のマークが刻まれている。恐らく、二年三組の生徒が使っていたものだろう。


 手に伝わるのは硬質な衝突感だった。

 見かけよりもラケットは重たい。それが、不可視の何かにぶつかって、人間くらいの質量を確かに押し込んだ。

 椅子は詩葉に届く寸前で床に崩れ落ちる。糸の切れた操り人形を彷彿とさせる挙動だ。重力に逆らうために必要なパーツが失われたのだろう。


 「そっか、ポルターガイストじゃなくて……」

 「透明人間が暴れてるだけ。」


 敵は凶悪だが、決して強大ではない。

 突破口は見つけた。飛来物の軌道から立ち位置を予測して、奴らの身体に攻撃を当てればいい。渾身の強打であれば確かに怯むのだ。


 「だから、任せて。」


 手足の震えを抑えながら、僕は詩葉の前に立ち、辺り一帯を睨みつける。

 相手は本気だ。人を殺すことに少しの躊躇もない。生まれて初めて目にする本物の暴力だった。


 刹那、小さな光が宙を滑る。

 ――蛍光灯に照らされた銀色のハサミが、その刃を大きく開きながら向かってくる。


 「止まれ……!」


 僕は身をひねり、ラケットを放物線に被せた。

 金属がガットにぶつかる。弾かれた凶器は回転しながら跳ねて、廊下側の壁に激しく打ち付けられた。もし、一瞬でも反応が遅れていたら――最悪の想像が頭を過ぎる。


 「ユイくん、教卓の三歩手前くらい。」

 「……うん!」


 僕はそのまま真っ直ぐに歩み出る。

 ハサミを投げた敵は教室の中央にいるようだ。詩葉の観察と、空気の微細な震えだけを手がかりに、僕は硬質なフレームが当たる角度で得物を振り下ろした。


 ――姿は見えない。呻き声もない。

 代わりに、鈍い感触が手に残った。大きめの石を全力で叩いたときのような反発感。僕は透明人間のどの部位を傷つけたのだろうか。あまり、想像はしたくない。


 「効いてるみたい。」

 「そうだね。でも……」


 攻撃の手が緩められた。

 僕らが抵抗してくることを理解したのか、向こうも出方を窺い始めたようだ。とはいえ、相手は恐らく集団だ。正面からの打開は現実的ではない。


 「わかってる。今のうちに逃げよ!」


 詩葉は付近の引き戸に手をかける。

 建て付けが少し悪くなっていたようだけれど、力任せに動かしてみれば、錆びついたレールの軋む音が響いた。隙間からは冷えた廊下の空気が入り込む。僕は彼女に続き、急いで教室を脱する。


 「え……?」


 しかし――飛び出した先の景色は崩れていた。

 床は緩やかに傾斜し、行く先ほど沈み込んでいる。数え切れないほどの分かれ道がある。窓の外には、広場や校庭ではなく、墨汁で塗り潰したかのような一色が広がるばかりだ。


 「何これ、出れないじゃん!」

 「でも、止まっちゃダメだ。」


 旧校舎は迷宮と化している。

 出口の場所は見当もつかない。それなのに、後方の教室から印刷物の束が飛んでくる。薄いノートも投げつけられる。直撃すれば微かに痛む程度ではあるが、問題は敵がまだ追いかけてくるということだ。足を止めることはできない。


 走る詩葉の背中を追いつつ、透明人間からの攻撃をラケットでいなす。

 消しゴムを弾く。丸められたプリントを打ち返す。スティックのりを叩く。雑巾を避ける。ホッチキス芯の箱がガットに当たって転がる。――不思議なことに、先ほどと比べて殺意を感じない。


 「あー、同じ景色ばっかり!頭おかしくなりそう!」


 逃走はいつまでも続く。

 出鱈目な分岐は気分で選ぶ。道を判断する根拠は僕らの中に一つもない。それでは、出口に辿り着かないのも当然だった。


 「はぁ、どこまで走れば……」


 息が上がる。喉が痛い。

 胸の奥が詰まって、酸素が上手く入ってこない。部活でもここまで走り込んだことはない。危機感のせいで辛うじて動けているけれど、本当は今すぐ倒れてもおかしくないくらいだ。


 「……あ。」


 広がるのはただの通路。

 終わりの見えない廊下。

 ――その奥の曲がり角の手前に、誰かが見える。


 「ユイくん。」

 「うん、間違いない。」


 制服姿の男子生徒。少し小柄なシルエット。

 僕はこの人を知っている。入学した頃から、ずっと、旧校舎の上階から僕を見下ろしていた影。幾度も感じ取った気配。


 僕と詩葉にしか視えない誰かが、遥か向こうに立っていた。

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