第41話 施療院
「――施療院でしょうか?」
耳慣れない言葉に、リヴィアは小さく首をかしげた。
「セレスティアが修道院の中に作らせた施設でな。貧しくて医療にかかれぬ者たちも受け入れているそうだ。
君には、聖アナステリア修道院にあるその施療院を慰問してきてほしい」
祝賀会から一週間。
ほぼ毎日、セレスティアと過ごしていたリヴィアは突然、アレクシスに呼び出された。
内容は、久方ぶりに“王女としての仕事”だった。
嬉しかった。
ただの話し相手として過ごす日々には、もう飽き飽きしていたのだ。
「もちろんです、陛下。わたくしでよければ喜んで」
深く一礼をし、退出しようと踵を返したその時だった。
「――そうだ。もう一つ、伝え忘れていた」
アレクシスの声に呼び止められ、リヴィアは再び振り返る。
「君に――縁談がある。受ける気はあるか?」
胸の奥が、ひたりと冷えるような感覚。
まさか、自分に縁談など。
結婚も、家庭を持つことも、とうに諦めていたはずなのに。
まるで誰かの夢を盗み聞いたような、現実感のない響きだった。
「……陛下がお決めになった方でしたら、喜んでお受けいたします」
そう答えたものの――
一瞬だけ、ヴァルトの顔がよぎった。
まだ未練があるのだと思い知らされ、思わず小さく笑ってしまう。自嘲するように。
「肖像画を見てからでも、決めていい」
誰であろうと、彼ではないのなら同じこと。
アレクシスは“君を幸せにする”と言った。
ならば、無茶な相手を選んだりはしないだろう。
王女の役割は結婚だ。
それが同盟のためでも、和平のためでも、時に国の拡大のためでも。
王女の“意思”が必要とされることなど、ほとんどない。
それなのに、こうして意志を問い、選ばせようとするアレクシスは――甘いのだ。
あまりに、優しすぎる。
「構いません。どのような方であろうと、夫となる方を――支える覚悟はあります」
「……その覚悟、真であるな?」
「はい。異論は、ございません」
リヴィアの凜とした声音に、アレクシスは満足げに頷いた。
「……話は以上だ。行ってよい」
リヴィアは深く一礼し、静かにその場を後にした。
廊下に出ると、足音が石床に淡く響く。
だがそのリズムは、次第に乱れそうになる。――頭の中が、縁談のことでいっぱいだった。
(本当に、わたくしに……縁談が)
嬉しいはずなのに、心は重く沈んでいた。
――あの人は、もうフェルシェルに戻っただろうか。
今もあの町で、民と共に忙しく働いているのか。
それとも、祝賀会の後、王都に留まり、貴族たちの宴席に顔を出しているのか。
間もなく始まる、王都の社交シーズン。
今こそ、多くの若い令嬢たちが、良縁を求めて舞踏会に足を運ぶ時期――
(きっと、彼にも縁談が持ち込まれる。王都に残る家族の誰かが、強く勧めるかもしれない)
貴族としての義務感が強い彼なら、断る理由などないだろう。
むしろ、王国の未来のためだと、きっと納得してしまう。
(……それでいい。わたくしが、誰かに嫁ぐように)
心のどこかが冷たくなる感覚。
それでも、リヴィアは歩みを止めなかった。
*
温かな春の空気の中、馬車の車輪が静かに石畳を転がっていく。
王都の喧騒から外れた丘の上、石造りのアーチが連なる回廊の奥に、聖アナステリア修道院がひっそりと佇んでいた。
施療院への慰問。それは、王女として久々に与えられた“仕事”だった。
リヴィアは淡い紫の外套をまとい、窓の外に広がる修道院の景色を見つめていた。
心のどこかが、静かに緊張している。
(……王女らしく振る舞わなくては)
そう思いながらも、誰かの声や姿を探してしまう自分がいた。
その「誰か」が誰なのか――答えは、もう知っている。
「……うそ……」
聖アナステリア修道院に到着したリヴィアは、馬車を降りてすぐ、探していた人物を目にし、思わず戸惑いの声を漏らした。
広場の片隅。
修道女と何やら言葉を交わしていたその背は、間違いようがなかった。
「――リヴィア王女殿下。なぜ、こちらに?」
驚いたように振り返ったのは、他でもない、ヴァルトだった。
「わたくしは……アレクシス陛下より、施療院の慰問を命じられて参りました」
リヴィアは息を整え、ゆっくりと答えた。
それでも、視線はなぜか定まらない。
「私は、陛下に領地の医療体制について相談していたところ、
一度、修道院の施療院を視察してみてはどうかと勧められて……」
ヴァルトの声はいつも通り低く、理知的だった。
けれどその言葉の意味は、リヴィアの胸を淡くざわつかせる。
(……そう。フェルシェルの医療問題。彼が、ずっと悩んでいたこと)
イザベラは医者ではない。高齢の彼女ひとりに、いつまでも町の命を預けるわけにはいかない。
それを誰よりも理解し、案じていたのがヴァルトだった。
ふと、先ほど彼と話していた修道女が歩み寄ってくる。
年の頃は三十ほど、温かな灰色の瞳が印象的な女性だ。
「リヴィア王女殿下でいらっしゃいますね。
本日はフェルシェル侯とともに、施療院のご案内を――とのご指示を、陛下より賜っております」
その言葉に、リヴィアは瞬時に理解した。
これは偶然ではない。アレクシスが、明確な意図をもって仕組んだことだ。
視線を横に送ると、ヴァルトも同じように目を向けていた。
目が合った瞬間、ふたりのあいだに流れる、かすかな沈黙。
言葉はなくとも、互いの思いは読めた。
――また、こうして並ぶことになるとは。
*
施療院の中に足を踏み入れると、まず漂ってきたのは薬草と消毒用の酒精の匂いだった。
石造りの壁に囲まれた薄暗い空間には、陽の光を取り入れるための高窓が並び、床には清潔な敷き藁が敷かれている。
包帯を巻かれた老人や、熱にうなされる幼子の寝台がいくつも並び、静かに祈るような空気が満ちていた。
「この部屋は主に風邪や衰弱した方々のための療養室でございます。
重症の方は奥の隔離室へご案内しております」
修道女の説明に、リヴィアは小さく頷いた。
「とても清潔に保たれていて……感心いたします。きっと、日々のお世話が行き届いているのですね」
「ありがとうございます。リネンの替えと石鹸は、セレスティア様が補助をお決めくださったのです」
そう言って頭を垂れた修道女の声には、誇りと感謝が滲んでいた。
その横でヴァルトは無言のまま、視線だけで部屋の隅々まで観察していた。
床の傾き、空気の流れ、薬棚の高さ。まるで兵舎の点検のような真剣さだった。
リヴィアは何か話そうとしたが、口を開いた瞬間、ちょうど修道女が別の病室の案内を始めてしまい、言葉はそのまま呑み込まれた。
ぎこちない沈黙が続く。
二人は隣同士にいるが、わずかに距離を空けて歩いていた。
時折視線が交わりそうになるが、どちらからともなく逸らしてしまう。
患者の一人――痩せた中年の男性が、寝台から上体を起こし、ふたりに気づいて微笑んだ。
「王女さま……ありがとうございます。こんなとこまで来てくださって……」
「ご無理なさらず、横になっていてくださいね。今日のご様子は?」
リヴィアはすぐに微笑みを返し、患者の手にそっと触れた。
少し冷えた手が、彼女の温もりに安堵したように震えた。
その様子を横目で見ていたヴァルトは、何も言わなかった。
だが、ふとその視線がほんの少しだけやわらかくなったのを、リヴィアは気づかなかった。
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