第37話 過去との別れ
公爵とのダンスを終えた直後、リヴィアのもとへ一人の若い貴族が近づいてきた。
「王女殿下。もしお時間をいただけるなら……一曲、ご一緒していただけますか?」
恭しく差し出された手に、リヴィアはゆるやかに微笑みながら指を重ねた。
「ええ、喜んで」
相手は、王国の中枢に名を連ねる名門伯爵家の嫡男だった。――踊って損はない。
そう打算的に考えられる自分を、心の中で自嘲気味に笑った。人は変わるものだと。かつての自分なら、ただ戸惑うだけだっただろう。
その後も、若い貴族たちが次々と彼女にダンスを申し込んできた。
リヴィアは微笑みを絶やさず、洗練された言葉遣いと優雅な所作で応じていく。
――思ったよりも、簡単だった。
国王と王妃の後ろ盾というものが、これほど社交界を泳ぎやすくするとは。
まるで仮面舞踏会だ。
誰もが“貴族”という仮面をつけ、そして今、彼らは“王女”という仮面を被ったリヴィアに媚びへつらう。
それは、どこか滑稽で、どこか悲しい喜劇のように思えた。
*
「リヴィア様、お久しゅうございますわ」
振り返れば、そこにはエミリアの――昔と変わらぬ、けれどどこか探るような笑みがあった。
その左右には、クラリーチェとフェリシアがぴたりと並ぶ。三人そろって、まるで記憶の中から抜け出してきたかのようだった。
「皆さま……ご機嫌よう」
リヴィアは穏やかに微笑んだ。けれど、その心はもう、かつての自分のものではなかった。
「ご機嫌よう、王女殿下」
クラリーチェが芝居がかった礼をし、目を細めて言う。
「本当に……見違えましたわ。最初は誰かと取り違えてしまいそうでしたもの」
「ええ、ドレスも素敵ですし。とても“お似合い”で」
皮肉の香りを含ませたクラリーチェの言葉に、リヴィアは静かに微笑を返す。
「お褒めいただき、ありがとうございます。これはフェルシェルで仕立てたものなのです。向こうでは贅沢な生地を選ぶ余裕などございませんでしたけれど……皆さまが教えてくださった“王女らしさ”は、忘れずにおりましたの」
エミリアの笑みに、わずかな硬直が走るのをリヴィアは見逃さなかった。
「まあ、それは光栄ですわね。でも……随分と変わられましたわ。あの頃のリヴィア様なら、こんな場で人の目を見て笑うなんて、とても」
「そうかもしれませんわね」
リヴィアはあくまで穏やかに返す。その瞳の奥には、冷たい光が潜んでいた。
そして、エミリアが一歩前に出て、甘い笑みを浮かべる。
「でも……わたくしたち、“お友達”でしたわよね? また仲良くできたらと、そう思っておりますの。よろしいですわよね?」
その声音には、挑むような色がはっきりと滲んでいた。
背後のクラリーチェとフェリシアがわずかに身を乗り出す。
――今や国王と王妃の庇護を受けるリヴィア。その“親しい友人”という立場を得ることが、いかに価値を持つかを、彼女たちは知っているのだ。
「……そうでしたかしら?」
リヴィアはふっと微笑みながら首を傾げた。
「“お友達”というのは――苦しいときに、そっと手を差し伸べてくださる方のことではなくて?」
エミリアの笑みが、ぴたりと止まる。
だが、リヴィアは視線を逸らさず、静かに続けた。
「でも、過ぎたことですわ。今は皆さまのおかげで、人前で笑う術も、相手を見極める目も、少しは持てるようになりました」
「……随分と、立派になられて」
エミリアがぎこちなく微笑む。その声音から、先ほどの余裕は消えていた。
「ありがとうございます。でも私は、ただ自分の誇りを取り戻しただけですわ」
リヴィアの声は、柔らかくも芯のある響きを帯びていた。
「たとえ誰が笑っても、私が王族として生まれたという事実は――変わりませんもの」
グラスを卓に戻し、リヴィアは丁寧に礼をする。
「それでは、失礼いたしますわ。――次のダンスを、お誘いいただいておりますの」
ふわりとドレスの裾を揺らし、リヴィアはその場を後にした。
誰にも振り返らず、背すじを伸ばして舞踏会の中心へと戻っていく。
仮面を被ったままでも、その足取りには、もはやかつての怯えも迷いもなかった。
(“お友達”――その言葉が、こんなにも軽く響く日が来るなんて)
舞踏会の中心へ戻っていく足取りは、誰よりも静かで、そして美しかった。
*
次のダンスが始まる気配のなか、リヴィアは人混みの端へと歩みを進めた。
仮面を被り続けたままの笑顔が、少しだけ疲れてきたような気がして――そっと、胸に手を当てる。
と、そのときだった。
「――王女殿下」
落ち着いた低音が、背後から響いた。
振り返ると、騎士服ではなく礼装に身を包んだヴァルトが、そこに立っていた。
漆黒の礼装は彼の鋭い輪郭をより際立たせ、肩には金の縁飾りが光を受けて淡く揺れていた。
この男が普段、剣を振るっているとは思えないほどの静けさと威厳。
それでもリヴィアにはわかる。――この人は、私の見た“地獄”の中で、誰よりも私の手を引いた人だと。
「一曲、踊っていただけますか?」
ヴァルトは手を差し出した。
無駄のない所作。騎士として鍛えられた動きだというのに、その指先には微かな躊躇があった。
騎士と王女。
領主と流刑者。
そして今、ただの――男女。
その間に流れるものを、リヴィアは確かに感じていた。
けれど、それは決して手に取れるような明瞭なものではなく、すんでのところで届かない、淡くて壊れやすい距離だった。
「フェルシェルで仕立てたドレスを着てくださっているのですね。領主として、光栄の極みです」
ダンスを踊りながら、ヴァルトは目を逸らすことなくリヴィアを見つめていた。
そのまなざしの奥には、騎士としての誇りと――それだけではない、言葉にはしづらい感情が静かに揺れている。
「……あちらの仕立屋は、豪奢さでは都に及びませんけれど、とても丁寧なお仕事をしてくださいますの」
リヴィアが穏やかに返すと、ヴァルトはごく自然に言葉を重ねた。
「とても、よくお似合いです」
――あの時と同じだ。
収穫祭の朝。
青いリボンを彼が贈ってくれた日のことが、ふいに脳裏をよぎる。
それは信頼の証として受け取った贈り物だった。
王都に戻ってからも、リヴィアはそのリボンを部屋の引き出しに大切にしまっている。今も、ずっと――宝物のひとつだ。
「……ありがとうございます」
小さく答える声が、胸の奥に染み込むように響いた。
――同じ言葉を交わしている。
同じように手を取り合い、同じように音楽に身を委ねている。
それなのに。
今の彼は、あの時の彼とは違って見えた。
あるいは、変わったのは自分のほうかもしれない。
(……心が、遠い)
笑みを浮かべながら、リヴィアは静かに思った。
淡い旋律がホールに満ちてゆく中、彼の手の温もりだけが、現実のものとして確かにそこにあった。
やがて音楽が静かに途切れ、ヴァルトの手がそっとリヴィアの手から離れていく。
その瞬間、なぜこれほどまでに名残惜しいのか、自分でも答えがわからなかった。
(もう一度、あの手を握って――)
フェルシェルへ帰る道を共に歩けたら、どんなにか幸せだろうと、胸の奥が締めつけられる。
ヴァルトは礼儀正しく一礼すると、静かに背を向けて歩き出した。
その後ろ姿を見つめるリヴィアの心に、確かな想いが芽生えた。
彼には想い人がいることも、立場があることも、痛いほどに知っている。
けれど、その現実を前にしても、諦めきれない恋心が胸に残り続けていることを、どうしても否定できなかった。
(ああ、私のこの想いは――何度諦めても、消えはしないのだと)
涙がこらえきれず、瞳の奥で静かに溢れた。
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