第36話 祝賀会

 大広間の扉が静かに開いた瞬間、場の空気が一変した。


 煌めくシャンデリアの光が、まるでその一人の登場を歓迎するかのように柔らかく揺れ、会場に微かなざわめきが走る。


 ――ドレスの裾が、ふわりと舞った。


 姿を現したのは、紫苑色のドレスに身を包んだ一人の若い女性。

 しなやかに織られた絹の生地には繊細な刺繍とパールがあしらわれ、光を受けて波のように艶やかに揺れる。

 肩に羽織ったショールには星々を思わせる銀糸の織りが施され、歩みとともに夜空のように瞬いた。


 リヴィア・ミレイユ・エルセリオ。


 かつて「醜い王女」と蔑まれたその名は、今やまばゆいばかりの気品とともに呼ばれる存在となっていた。


 左手首には、アメジストの腕輪がひときわ美しく輝いている。

 それは姉セレスティアから贈られた、妹としての絆の証。

 その光はリヴィアの新たな歩みを祝福するように、堂々とした気高さを添えていた。


 入場の先導を務めるのは、グレゴール・フォン・ベルグシュタイン公爵。

 王国でも屈指の大貴族にして、現国王アレクシスの実父。

 かつて王家に反旗を翻し、それを成功させながらも、自らは王座に就かず公爵として息子を支える道を選んだ――いわば異端の英雄である。


 その男が、前王の妾腹であるリヴィアを自らの腕に伴い登場したことに、貴族たちは騒然とした。


 リヴィア王女の復権が噂されていたとはいえ、まさかグレゴール公爵自らがその正統性を保証する形で現れるとは、誰ひとり予想していなかった。


 それは、リヴィアが現王家の“庇護下”ではなく“中枢”に迎えられたことを意味している。


 彼女の左手首にあるセレスティア王妃とお揃いの腕輪――それこそが何よりの証だった。

 貴族たちは、かつて無視し続けてきた王女が、実は“王妃の妹”であり、王家そのものに擁立された存在であったという事実に、息を呑んだ。


 ざわめきは静まりきらず、誰もがその美しい変貌と、予想外の後ろ盾に言葉を失っていた。


「此度は、我が息子ルシアンの誕生を祝して、この場に集ってくれたこと、心より感謝する」


 国王アレクシスが席を立ち、静かに口を開いた。


「我が子は、前王朝エルセリオ家と現王朝ベルグシュタイン家、ふたつの血を受け継ぐ者――それは、過去と未来を結ぶ、希望の象徴である」


 一瞬の静寂のあと、場内に静かな感嘆の気配が広がる。


「我らは今、困難を乗り越え、新たな時代へと歩みを進めている。この子の誕生が、皆にとって安寧と繁栄の兆しとなることを、心より願っている」


 堂々としたアレクシスの声が、祝賀の場に静かに響いた。

 その瞬間、会場中から盛大な拍手が沸き起こる。


 セレスティアが微笑みをたたえてルシアン王子を抱き、そっとアレクシスの隣に寄り添った。

 絵画のように美しく、華やかな一枚の光景――その姿に、会場には恍惚とした空気が流れた。


「この目出度い日に、もう一人紹介したい者がいる。我が妹――リヴィア・ミレイユ・エルセリオ王女である」


 その名が高らかに告げられると、会場の視線が一斉に一人の女性へと注がれる。

 リヴィアは公爵の導きで静かに壇上へと上がった。

 眩い光の下、緊張と覚悟を滲ませた表情で、真っ直ぐに前を見据える。


「リヴィア王女は、その知恵と働きでフェルシェルを守り、復興に惜しみない助力をしてくれた。一度は王女の称号を返上したものの、その功績は著しい。よって、改めてベルグシュタイン王家の王女の称号を授ける」


 ……あたかも、リヴィアが自らの意思で称号を返上し、父王が虐殺を行った地で民のために尽力したかのような語り口だった。

 だが実際は――あの日、何の猶予もなく彼女の称号を奪い、流刑を命じたのは他ならぬこの男だ。

 自分の意思など一欠片もなかった。


 ――それでも。

 今、王の口から語られたのは、リヴィアという存在を肯定する"物語"だった。


 事実がどうであれ、王が語ればそれが真実となる。

 それが王という存在であり、玉座の重みである。残念ながらリヴィアの父はまったくそのことを理解せず、いたずらに権力を振りかざして、玉座を穢した。アレクシスとて、一歩間違えばいつでも同じ運命を辿る。それが分からぬような阿呆では無いのだろう。


 続いて、アレクシスとセレスティアが開幕のダンスを披露した。その舞は、まるで絵画のように優雅で、美しかった。王と王妃という存在が、これほどまでに映えるものかと、会場の誰もが息をのんで見つめていた。


 その間にも、リヴィアのもとへは次々と貴族たちが挨拶に訪れていた。これまで見向きもしなかったような上級貴族までもが、笑顔で祝意を述べてくるのには、思わず苦笑が漏れた。

 ――結局、見ているのは「風向き」だけなのね。


 最初のダンスの相手は、もちろんベルグシュタイン公爵だった。


 彼はゆるやかに手を差し出すと、まるで絹を扱うような優雅な所作でリヴィアを舞踏会の中心へと導いた。会場の注目が彼女たちに集まり、衣擦れの音さえ音楽の一部に思えるほど、静寂に包まれる。


「見違えましたな。最初、王妃殿下から紹介されたときは、誰なのか判別がつきませんでした」


 舞の最中、公爵はいつもの飄々とした口調でそう言った。


「そう仰っていただけて、光栄ですわ」


 形式的に微笑んで答えると、公爵は口の端をわずかに吊り上げる。


「光栄、ですか。ああ、実に王族らしい返しだ。――いや、皮肉ではありませんぞ。王族とは、仮面を被る技芸に優れてこそ、ですからな」


「仮面、だなんて……」


「では尋ねましょう。今この場に立つあなたは、“仮面”ではないと?」


 問われ、リヴィアはわずかに視線を落とした。ドレスの裾が優雅に揺れ、舞踏会の中心を二人で滑るように旋回する。その間も、心はざわついたままだ。


「……自分でも、よく分かりません。けれど、逃げるのはもうやめました」


「それは結構。王宮に帰ってきたということは、“誰かの庇護下で微笑む”だけでは済まぬという覚悟がある、ということだ」


「はい。今さら“無理でした”と泣きつくつもりはありません」


 凛とした口調でそう答えると、公爵は満足そうにうなずいた。


「賢くなられましたな。かつてのあなたは、“誰かが真実を見つけてくれる”と信じていたように見えた。だが今は、自分で語る覚悟をお持ちだ」


「……そのように見えますか?」


「見えますとも。――ただし、心まで変わったかどうかは、これからでしょうな。仮面は上手に作られていても、素顔はいつか綻ぶ。見せるか、見せぬか」


 曲は終盤へと差しかかり、旋律がいっそう高く重なっていく。周囲の貴族たちが息を呑み、二人の踊りを静かに見守っていた。


「あなたは、私の仮面の下を見たいのですか?」


 リヴィアが静かに問いかけると、公爵は少しだけ口元をほころばせた。


「ええ。とても。私は昔から、“人の本音”というものに興味がありましてな。なにせ――王も、貴族も、恋も、国家すらも。それで崩れるものですからな」


「……崩れるのがお好き?」


「崩れるときこそ、美しいと思うのですよ。人間の“形”というものが」


 その一言に、リヴィアはほんのわずかに身を強張らせた。公爵の指先に力はないのに、逃げ場のない圧だけが伝わってくる。まるで、爪の先まで計算でできているような――そんな存在。


「……では、私は壊れた人間に見えますか?」


「いいえ。あなたは、“壊れかけて、踏みとどまった者”に見える。そういう人間は、時に、最も強くなる」


 やがて、最後の音が空気を震わせた。

 二人が静かにステップを止めると、会場のあちこちから拍手が湧き起こった。


「良い踊りでした。……また、続きはいつか」


 そう囁いて、公爵はリヴィアの手を優雅に放す。手の温度が残る間もなく、彼はもう背を向けていた。


 リヴィアは小さく息を吐く。少しだけ、肩に力が入っていたことに気づいた。


(――やはり怖い方。昔からあの方は苦手だわ)


 グレゴール・フォン・ベルグシュタイン。

 変人と噂され、何を考えているのか読めない。

 けれど、その仮面の裏にある知略と洞察力は、誰よりも鋭い。

 まさに――社交界という魔窟に棲む“化物”。

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