第8話 フェルシェル

 シリウスと別れてから、リヴィアは話し相手もいない孤独な日々を送っていた。

 けれど、それも長くは続かなかった。ついにリヴィアたち一行は、目的地であるフェルシェルに辿り着いたのだ。


「降りろ」


 牢での会話以来、久々にヴァルトがリヴィアに声をかけてきた。

 あれからかなりの時が経ったが、胸の内にはまだ、どこかぎこちないわだかまりが残っていた。


 荷馬車から降りても、リヴィアとヴァルトの間に会話はなく、空気は張りつめたままだった。


 沈黙を破ったのは、ヴァルトのほうだった。


「リヴィア――荷物を領主邸へ運ぶ。皆を手伝え」


 どうしてわたくしがそんなことを――。

 王都にいた頃のリヴィアなら、きっと喚き散らしていただろう。


 けれど今のリヴィアは、ただ少し唇を噛んでうつむき、何も言わずに荷車の方へと歩き出した。


 乾いた土埃が足元で舞う。荷車の上には麻袋や木箱が山と積まれていた。

 重さは見ただけで想像がつく。ひとつ運ぶだけでも骨が折れそうだった。


「それは重い。まずはこっちだ」


 ヴァルトの低い声が背後から聞こえ、思わず肩が跳ねた。

 顔を上げると、彼はすでに麻袋をひとつ抱えていて、手際よく運び始めていた。


(わたくし一人だけが、できないと思われたくない)


 リヴィアは口を結び、両手で木箱を抱え上げた。重みで足がふらつくが、なんとか持ち堪える。


「無理はするな」


 ヴァルトの声がまた聞こえたが、彼女は返事をしなかった。

 ただ黙々と、荷を運び続けた。


 おそらく誰よりも遅く、誰よりも少ない荷物しか運べなかっただろうリヴィアをヴァルトは一言も責めなかった。


 それどころか、運び終わってヘトヘトになったリヴィアに「よく頑張ったな」と一言ではあったが賛辞まで送ってくれたのだ。


 他の者たちにも同様の賛辞は送っているので、リヴィアだけが特別というわけではない。

 それなのに心が温かい気持ちになるのはなぜなのだろう。


「リヴィア、紹介しよう。この屋敷の管理をしてくれている『イザベラ』だ。君には彼女の下について働いてもらう」


 灰色の髪をきっちりと結い、無地のエプロンドレスに身を包んだその女性は、背筋をまっすぐに伸ばし、年齢を感じさせない鋭いまなざしをリヴィアに向けていた。

 その目は、まるで人の内側まで見透かすような眼差しだった。


「……あなたが、あの“元・王女様”ね」


 イザベラは感情をほとんど込めずにそう言った。

 けれど、その声には、乾いた棘のようなものが潜んでいた。


「働く気はあるのかい?」


 しかし、リヴィアは何も答えなかった。

 イザベラはため息をつき、冷たく言い放つ。


「働く気がないなら、この屋敷には一歩たりとも踏み入れさせないよ」


「イザベラ」


 背後からかけられたヴァルトの声にも、彼女は振り返らなかった。


「領主様、甘やかしてはこの娘のためになりません。この屋敷はね、先の領主ご一家が住まわれた、由緒ある大切な場所なんです。それを理解し、大切に扱えないような者を中に入れるわけにはいきません。今のこの娘の態度じゃ、無理だと私は思いますよ」


 リヴィアは唇をかみ、視線を床に落とした。

 王女として育った日々の名残が、彼女の誇りを縛っていた。

 だが、イザベラの言葉は容赦なく、その残骸を踏みにじる。


「……分かりました」


 小さな声が、ようやくリヴィアの口から漏れた。

 それは、王宮では決して聞かれなかった、従順の響きだった。


「イザベラ、この娘を頼む。これの罪はアレクシス様が裁かれた。だから、今これは虜囚だ。私が監視しないといけないことになっている」


 ヴァルトは領主であり、イザベラは使用人なのだから、命令すればいいのにヴァルトは一切イザベラに命じることはなかった。

 まるで対等であるかのように懇願するのだ。嫌っている様子のリヴィアのために。


「仕方ないねぇ、領主様がそこまでおっしゃられるならあんたをここで働かせてやる。でも、少しでもフェルシェルの名を汚すような真似をしたら叩き出すからね」


 渋々と言った様子だがイザベラはリヴィアが働くことを了承した。


 *


 

 領主邸での生活は、決して楽なものではなかった。

 イザベラは、人生で初めての仕事ばかりに戸惑うリヴィアに、大層辛く当たった。掃除が遅ければ「愚図」と罵り、包丁で指を切って痛みに泣けば、「大の大人が泣くな」と怒鳴る。洗濯物を抱えて重さに足を取られてよろけた時には、「図体だけは立派なのに」と鼻で笑った。


 極めつけは食事だった。

 牢で食べたあの固いパンにあれほど文句を言っていたリヴィアだが、ここでの食事はそれ以下だった。

 初めて見た時、それが家畜の餌ではないかと本気で疑ったほどだ。


 木の器に、水のような大麦粥がほんの一掬い。噛みごたえもないほど柔らかく煮崩れた野菜の切れ端が、唯一の具らしきもの。それだけの食事だった。

 食事量の少なさには次第に慣れてきたが、内容だけはどうしても我慢ならなかった。


「もう嫌よ!」


 固い寝台に身を投げ、涙を流すのは毎晩のことだった。

 いっそ逃げ出そうかと考えることもあったが、リヴィアには逃げ場などなかった。

 理由はそれだけではない。

 領主邸は高台にあり、洗濯物を干すたびに、自然と領地の様子が目に入るのだ。


 リヴィアが今まで見たどの町よりも、どの村よりも、ここは深刻だった。

 農地の半分近くが荒れ果て、町には活気というものがまるでない。

 広場には毎日のように、ヴァルトからの食糧や物資を求める人々が列をなしていた。

 瓦礫と化した家々の傍らでは、薄汚れた布を張っただけのテントを住まいとする人々の姿も見えた。


 どうしても気になって、リヴィアが洗濯物を干す手を止めて町を見下ろしていると、

 いつもなら「手を止めるんじゃないよ! この愚図!」と怒鳴るイザベラが、その日は何も言わなかった。

 ただ、じっと、探るようにリヴィアを見つめていた。


 その瞳には、悲しみと怒り、そして――わずかに期待のような光が入り混じっていた。

 なぜイザベラが自分にそんな眼差しを向けるのか、リヴィアにはわからなかった。だからこそ、戸惑いが胸を満たした。


 そんな日々の中で、一番の変化は、リヴィア自身だった。

 何をしても消えなかった肌の吹き出物が、見事に綺麗さっぱり消えたのだ。

 身体も、心なしか前より軽く感じる。最初の頃は掃除を少ししただけで息が上がっていたが、今ではさほど苦しくない。


 身支度も手早くなった。下着も服も一人で着られるようになり、髪も自分で結える。

 今なら、シリウスに馬鹿にされることはないだろう。


 ――出来て当たり前っすけどね。


 そんな声が、どこかで聞こえた気がした。

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